東野圭吾の書く、加賀の初登場作品だった「卒業」を読んでいます。「私が彼を殺した」「悪意」は既に読んでいます。「卒業」でも憎らしいくらいの加賀っぽさです。加賀を見ていると、東野圭吾の書く男達が常に感じている「物足りなさ」が理解出来る気がします。「綺麗な女性と付き合いたい」「お金と地位が欲しい」と渇望する男が沢山、東野圭吾の作品には出てきます。
彼らの母子ないし父子関係が不安定だから、際限なく迷うのだろうなと思いました。「変身」「私が〜」でも露骨にそんな場面がありますが、単に小説的な「現代男性の欲望の形」というだけでなくて、彼らは原点に帰りたくても帰れない人達なのかなと思いました。 さまよう男達に比べて、東野圭吾の書く女性は意外としっかりしています。男達に不幸な目に遭わせられる女性も多いですが、全体的な印象はたくましいです。劇中の女性達が、どんなに若くても「母性」を秘めているからかもしれません。「家庭」なんて幻想だと「母性」に背中を向けた美冬は、特異ですが。雪穂の母だって、娘への罪悪感で苦しんでいたのだから、美冬がああも冷めているのは、もう個性なんでしょうが。
春は、無駄に気合いが入って何かしらのヘマをする時期なので苦手です。慣れない事に不適応が激しい性格なので、新年度というのはいつになっても嫌です。じっくり見回して、「何も変わっていない、大丈夫」と認識を確認しないと、生活すら出来ません。変に張りつめた気分のなか、ミラトレの4月バカに引っかかったので、何だか気が楽になりました。
(頭の中で、激しく、記憶の切り捨てと保存を繰り返している感じがある。よく、外出するとデジカメを盛んに動かす人がいるが、自分の場合、覚えたいものなら、死ぬまで覚えているんじゃないかと思う時がある。記憶を写真で残そうと余り思わない。
「記憶術」というのがあるが、人間、本当に必要なのは忘れる事だと思う。私はどんなに不快な記憶でも、例えば「あの時と同じ気温・天候になった」だけで、明確に記憶がよみがえる人間なので、生きていて辛い。)
去年の今頃、ミラトレに触れました。多分、あの時ミラトレに出会わなかったら、とても困っていたと思います。いつもの駅、いつものホームで、自分の悩みを絶対に笑わない人が待っていてくれるのなら、少なくとも、そのプラットホームに行くまでは諦めてはいられないと思えました。
去年の5月頃、初めて西新宿五丁目駅に行って、そんな妄想に耽りました。六本木駅や、新宿駅、都庁前駅の様な「アッと言わせる」何かが西新宿五丁目駅にあるわけではないんですが、それがよかったんだと思います。普段着な感じ。(・・・カニは十分インパクトだった。)
平成24年4月3日 竹淵 拝 madeingermany193☆yahoo.co.jp ☆→@ |
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