■自分の南国&PAPUWAにおいて永遠の問い、「高松は家族か?」というのがありまして。テーゼは「高松は雇用人に過ぎない」です。グンマは濁し、キンちゃんは「お前は父さんの嫁で俺の母さんで教師だ。違うと言うのなら俺がお前をもらう」と逆上しそうです。(キンちゃんなのでゆったり構えられないし、「高松は家族か」と問われる時は、高松が総帥交代等の諸般の事情でいなくなりそうな時でもある。)
■マジックは「高松も家族だよ」と言いそうです。昔の上流家庭では使用人にも主人の情けが及んだのと同じ感覚で。高松はそういうマジックの傲慢さが嫌いで好きでしょう。グンマが口をつぐみ、キンちゃんの頭に血が上った頃、高松が「マジック様がおっしゃるのですから私も貴方様方の家族らしいですよ。よかったですねキンタロー様。」と言うと思います。
(高松は本来の意味での「家族」には厳しいと思う。医者の家の子なら厳しく育ったと思うし、妻子がいたら結構きつく出そうな男だ。高松にいるのが「故人である夫と玉の様な遺児」で正解だった気がしないでもない。)
(マジックがトップでないとガンマ団&青の一族は瓦解すると思う。連綿と続く両団体であるけど他人のシンタローでは外郭も内実も支えられないし、現状のガンマ団を作ったのはマジックだ・・・。)
■青春、ミラトレ以外の鉄作品も読みたくて何冊か読んでみました。青春、ミラトレは擬人化なので、例えば東京駅に行って、京浜東北線ツンだなあ」とか思えます。「サンライズはナイスミドルだなあとか」「山手線は寂しそうだ」とか。
擬人化でない鉄漫画だと、どうしても鉄と読者である自分の間に「登場人物と言う別人」が入ってくるなと思いました。ミラトレの場合「駅=キャラ」なので、西新宿五丁目に行けばそのまま「吹、会いに来たよ」と思えます。擬人化でない漫画だと「西新宿五丁目駅の特異性」について、滔々と「初見の漫画の登場人物」に語られる事になりそうです。擬人化なら駅、車両、路線が語りかけてくれるのに。
乗ったり、見たり、駅に行ったりするだけで「鉄分」と話しできます。疾走するSLにうっとりする瞬間、のぞみに乗り込む時のときめきがいいので「漫画の登場人物と言う名の別人」が時として自分はいらないんじゃないかと思いました。書籍による鉄情報、薀蓄は欲しいですが
■年配のおじさんが駅弁を愛しながら旅をする漫画、それとは別に、鉄で旅する男女の漫画を読んでみました。鉄分は豊富なんですが、おじさんが鉄を愛するのはいいとしても、同行の若い美女に色目を使ったり、または旅行する男女のグループの恋愛事情なんて、漫画に感情移入出来ないと負担に感じます。
自分が好きなのは路線、駅という、「誰にでも愛想を振りまかざるを得ない悲しい存在」であって、駅で交わされる生きている男女の話には興味ないみたいです。
■鉄と言う無機物に心惹かれるわけない、鉄にからめて男女の愛や恋を語るのが正当と人は言うと思いますが、自分は駅も車両も好きです。性も言葉も愛嬌もないけど、体張って日々「誰にでも尽くす」彼等が大好きです。
医者には「患者を断れない」という原則がありますが、それに近いかもしれません。教員がクラスの生徒を無視する事は許されないのと同じで。(自分は高松が医者でなくて教員でもなかったら今ほど好きになっていただろうか。キンちゃんに対しては個別の感情を持っていそうだけど、キンちゃんが乞わないと見せなそう。) |
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