漱石の明暗を読み終えました。津田が温泉の逗留客として滝見物に行く寸前で終わります。漱石の死は残念ですが、ここで終わるのがよかったのかもと思いました。お延の悲惨さが増す一方なので。以下は明暗への雑感です。
■津田が逗留中に痔が再発するとして。 ■再発とほぼ同じ頃、吉川夫人に無理矢理温泉に行かされたかもしれない、お延到着 ■病床で夢の中、関と行ってしまった清子を呼び続ける津田。お延が看護しようとしても嫌がり、拒むだろう。「お前となんか結婚したのが間違いだった、俺はこのまま死ぬ方がいい」とか言いそう。 ■お延の縫ったドテラと宿のドテラの比較、お延の挙措と清子の挙措の比較、全てがお延に不利。津田に自分を愛させる方法はない
■津田が清子を愛している事を知るお延。自分が津田からも縁者達からも孤立している事を再認識させられる。(※津田が愛するのは既婚者である現在の清子ではなく、自分と付き合っていたころの「無垢な清子」なので、色あせないし、まして「所帯じみて来てイライラさせる」お延に勝ち目はない。) ■仮にお延のお腹に津田の子供がいたとしたら。お延の過度のストレスと、温泉場に行くまでの疲労が子供に影響しないはずがなく流産するかもしれない。(流産は罰だと門で言われている。姦通を責められるお米には子供を失うのが罰かもしれないけど、なぜお延が)
■普段の贅沢への批判、津田の入院中に(継子のためとはいえ)芝居に行った批判、それらに「流産」への非難が加わり集中砲火されるお延。非難が余りに祟って体を壊すけれど、お延には理解者がいない。津田と東京に帰ってもお延に救いはない。
生まれなかった子供と共に、自分も旅館にいた老人に墓碑銘を書いてもらう事になるお延・・・・嫌だなあそれ。でも行人の言う通りなら、発狂か死か宗教しか救いはないので、それがお延の救いかもしれない。津田は救いようがない。
漱石はお延を最初は「意地っ張りで誤解されやすく自身も自分を頼むところの多い女性」として書いて、いつもの漱石らしい明るさも含めつつ話を進めますが、段々、「お延を追い詰めて詰め腹を切らせるだけ」の暗い話になっていった気がします。お延には嫌々付き合っている津田が、あまりに清子贔屓が過ぎるので、もうお延に逆転のチャンスはない気がします。漱石なので「自分の子供を妊娠している奥さん」なんて、そんなに大事にしなそうですし。
漱石は「自分の書いた小説の中で、自分の理想の男女が完全な形になっていく」事を望んでいた気がしますが、いつも挫折して救いのない話になっていく気がします。しっくりこないお延と津田は永遠にしっくり来ないでしょう。小林や原についても、漱石は津田の助け舟として出したと思いますが、エリートである漱石が下層の人達を書いてもどこか浮いています。
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