■以下、みじめな話になるので、先に二次元の話を書きます。
高松といえば、グンマへの甘やかしですが。日本人的感覚で言うなら、甘えの感情は悪いものとされていないようです。自分は学生時代に土居健朗にはまった事があり、成程と思った事も多いです。
端的な例は「家族の様な会社」でしょうか。実際、昔の家庭内工業的な小さな会社なら、社長の娘さんと従業員が結婚したり、冠婚葬祭を共にしたりと、分かりやすいイメージが沸きます。これが段々、「無償の労働」を引き寄せ、現在のブラック何とかに繋がると思うと、根が深いです。
高松とグンマって、何事もなくアニメ南国のまま物語が終わっていたら、つつがない疑似親子だったろうと思います。でも、高松はグンマの清(※坊ちゃん)ではありませんし、グンマに高松を幸せにする義務はありません。
高松の執着だけが、高松とグンマをつないでいたのだろうと思います。グンマと言う美青年の魅力もあったと思いますが、「マジックへの恨み」「ガンマ団そのものを、ルーザーとの思い出の場ととらえる高松の歪み」「高松が本当に一緒にいたいのはグンマではなくシンタロー(=ルーザーの息子=キンタロー)」という、ねじれ切った執着です。
聡明なグンマは、高松の根深さをある程度までは理解していたと思います。それでも南国終盤まで高松につき合ってくれたのは、高松がグンマを甘やかしていたからではなく、グンマが高松をあやしていたからではとさえ思います。
■図書館で数冊まとめて借りたので、まだアドラーを読んでいます。大学の普通の提出物なら出来るかもしれないと、おかしな気を起こします。本によって、アドラーへのアプローチが少しずつ違うのが面白いです。
基本的に前向きで楽天的と言えるアドラーですが、厳しいのは「誤ったライフスタイル」「怠惰」「甘やかし」なのかなと思います。ここまで「末っ子は甘やかされてダメになる」と断言していると言ってもいい人はいないと思います。
アドラーは自分の論説や主張、提唱した概念等に特許的な考えがなかったそうで、もしかしたら「子供の生まれる順番」について考えた、初めての人だったのかもしれません。今では常識になっていて、誰も疑わない事も、最初はアドラーの発見だったのかもしれません。
そういえばフロイトは、性については恐ろしいくらい繰り返して語っていても、もっと漠然とした「家族」については語らない気がします。語っても、「男の子は父親を殺し、母親を性的に奪おうとする」とか、夢も希望もない事はよく言っていた気がします。
どのくらい夢も希望もないかというと。女性とは、要するに男性のなりそこないだという見解さえフロイトにはあったと思います。年頃の娘さんには、読むのが早過ぎる概念です。
自分は小さい頃から祖母に、「お前は男の腐ったようなものだ」と言われ続けて来ました。髪も短いし、スカートもはかないし、粗野、色気も何にもない書物だけが好きだった事は認めます。ただ一つ祖母に抗議するとしたら。「私をけなすくらいなら、お洒落するなり、お買いものするなりの小遣いをよこせ」でしょうか。
我が家はブラック農家だったので、家族構成員の労働、家事、農作業等は無償であり、収穫の喜びや、収益の数々は、たまに都合よく遊びに来た、遠方の従兄弟達に祖母の手で運ばれていました。都会的で金持ちで、祖母に愛される従兄弟達に比べ、自分のみじめさをいつも感じていました。
そんな祖母の言うなりだった父の事も許せませんし、どうも自分がアドラーを読みたい理由はその辺からかもしれません。 |
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