■マジックと言えば家事ですが。同じくらい家事が得意だろうミツヤは、マジックに家事を教えなかったのではと思います。ミツヤはマジックに仕えたいだけで、マジックの親ではありません。
高松も家事が得意でしょう。ですがキンちゃんに、家事その他をなるべく教えたろうなと自分は思います。ミツヤはマジックの側にいたい欲求を優先したけれども、高松はキンちゃんに大人になって欲しい気持ちの方が強そうかもと思います。
■漱石の書く男達って、被害者意識がすごいなと思いました。行人では母、お重、お兼さん、直の苦しみ等書かれますが、全て雑談扱いであり、主人公の一郎二郎は自分の問題にしか関心がありません。一郎二郎は口をそろえて「相手が悪い、自分は悪くない」と言い張ります。
お重に嫁ぎ先を見つけてやるのは一郎の仕事だと思いますが、偏屈で子供っぽい一郎にはムリでしょう。劇中でお重だけでも幸せになって欲しかったです。
■漱石三部作の前の方、三四郎、それから、門はシンプルでファンタジー色の強い作品だったんだなと思いました。行人の二郎は見合い相手に対し、自分は相手を好きでも何でもないのに、「あの女が俺に惚れればいいのに」と己惚れるどうしようもない男です。
漱石三部作の三四郎・それから・門の方は、「惚れられた男」の話です。美禰子は三四郎が嫌いではなく、三千代は代助の愛を必要とし、お米は夫を捨てて宗助について来てくれました。
行人の直は、二郎とセックスをする事はあったかもしれませんが、二郎について行くことはないと思います。どうせ二郎だから、直と肉体関係を結んでも、直を大事にしないでしょう。
三四郎以下三作は、どうしようもない男達に、耐え、愛してくれる女性達がいます。彼岸過迄・行人・こころでは、女性達が男達に反旗を翻す様になりました。千代子は須永を責め、直は夫も二郎も所詮同じ男だと見捨て、静は先生に怒りを露わにしています。
小説なのだから、愛や恋、セックスに夢を見てもいいと思います。女性と言うファンタジーに浸りまくっているのが漱石前三部作だろうから、三四郎以下三作は非常に分かりやすく読みやすいです。
■行人を読み終えました。結局誰一人、一郎に厳しい事を言わないままです。一郎は「自分は不幸だから、他人、特に家族や妻を幸せにする事は出来ない」という人です。どん底にいる直でさえ、一郎に家でくつろいでもらおうとして努力しているのに、一郎は残酷で幼稚で、独善的な男です。
不思議な事に、行人の主な男達は大体一郎の崇拝者です。二郎は、兄に嫌われたくありません。三沢も一郎に一定の敬意を払い、Hさんなどは一郎の保護者の如きです。
一郎個人が反省しないのは、一郎が漱石の権化であるから。一郎は漱石の化身だから、漱石に大勢いた崇拝者、読者、弟子達の姿が一郎にも見えます。
一郎の大学での講義は、若い子達に受けるそうです。漱石もそうですが、一郎は男にモテます。女性を見下すスタイル、近代的で最新鋭の思想、他者の追随を許さない孤高等から。
漱石が弟子も信者も読者もないアマチュアだったら。多分周囲に媚を売って、勢い一郎も芝居でいいから直に優しくする男になったろうと思います。一郎の「高貴」さは、信者を従えていた漱石のそっくりです。 |
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