■先に気楽な事を書きます。少し前に書いたルザ高小説を読み直しましたら、高松が女子中学生の様でした。「好きな人の前では小食になる」とかのあれです。高松なので、好きな人の気を引く小芝居くらい出来そうですが、多分ルーザー様の前では出来ないとおもいます。
女子力とか、あざとさとかではなく。昔読んだ古い少女漫画雑誌の様なのが、自分の理想なのかと思うと、顔から火が出そうです。
■劇場版ウテナで。西園寺がアンシーに対し「(アンシーは)僕の所有物だ」と言い、ウテナが激怒するシーンがあります。テレビ版でも、「私はウテナのものよ」と繰り返し言う若葉に、ウテナが喜ばない場面が何度かあります。
幾原監督らしいきわどい場面と言うより、この世界のBGMの様なものなのかもしれません。以下、大菩薩峠の雑感です。本編とは余り関係ありません。
・比較的出番の多い男、駒井と白雲は中盤も割と出ている。両者とも立派な事を言うが、駒井は本妻から離れて生活している間に、お君を側に置き、その後身重になったお君を子供ごと捨てた。お君のせいで左遷になったとか愚痴っていた気がする。
白雲も、妻子がいると公言していながら世話をしている描写はない。描写がないだけとも言えそうだが、多分音信不通だろう。一応時代物である大菩薩峠において、彼等の行いをどうこういうつもりはないが、彼等が威風堂々というか、いけしゃあしゃあと偉そうにしているのが嫌だ。
今よりもっと人に自由がない時代において、妻を捨てる、側室を置く、子供の世話をしない、など夢の様なフリーダムな事だったのか。絵空事としての男達のフリーダムな暮らしと思えば怒る必要はないが、大体にして、西園寺莢一の悪い所の様なものは今も見かける。
妻子を捨てるとよく言うが。要は男にとって彼等はその程度のものだったのかもしれない。身分のある人にとっては、妻だの子だのは義務に過ぎないのなら、パッと捨てて、若い美女に手を伸ばした方が意に沿うのかもしれない。
好意的に「妻子を捨てる」という事を解釈すると。それだけ重要な事を男が背負っているのか。仏教的に、わずらわしい事を捨てる、的な宗教的な(嘘っぽい)感情なのかもしれない。
犬や猫、またはゴミの様に捨てられる婦人と幼児にすれば、男の志などクソ程のものかもしれない。よく、「大人になって父の気持ちが分かった」とかいうのは、周囲へのお愛想か、いつの間にか父親の様な大人になってしまった後悔を、認めたくない戯言だろうと思う。
政治的判断、大局を見極める、等都合のいい言い訳は山ほどある。婦人も幼児も、自分らに対しそれまでだった男に対し、夢も希望も期待も抱かないだろう。自分の志だの、男としての何とかだのを、弱い女性と子供を痛めつける事でしか表現できない男の事など、顧みる必要はない。 |
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