 ■以下自分の周囲について思った事です。ハリポタのウィーズリー家の様な家は、映画の事だと思っていましたが、実際「明るい家」と言うのが現代日本にもあるのだと、最近知りました。
父にとって嫁と娘、息子、ペット他はアクセサリーなんだなと近年気が付きました。彼が近隣の結婚していない大人を、始終罵倒しているからです。確かに父は24歳で結婚、娘の私を得ましたが、当然ながら生んでくれたのは母で、世話をしてくれたのは保母さん達です。
ずっとどうして父は、「私」が頑張ったあれこれを、自分の事のように自慢し、話すのだろうと思っていました。順調な時は私も気にしませんでしたが、私が落雷に遭った様な「不幸」を味わった時、彼は私の味方になりませんでした。私の、彼についてのアクセサリーの役目が終わったのだと、やっと気が付きました。
父は末っ子長男でした。母と姉2人に守られ、(別に財産も名声もないのに)家の後継ぎとしてチヤホヤされ、家事をしていた姉達、私には伯母達が結婚して家を出た途端、好きでもない近所の女、20歳だった母に子供をはらませ、結婚させました。その子供が私です。
適齢期に結婚できた、子供が出来たという事実が父を有頂天にさせたのは疑いのない事です。若かった母はそのまま子供をもう2人産み、三人目の子供が男児だったので、父の御機嫌は最高潮だったでしょう。自分を飾るアクセサリーの総仕上げは、自身と同じ、後継ぎの男児です。
私はずっと弟が成長するに従い、いい様のない焦りと不安を感じていました。長い過去、父の自慢の娘である事が私の喜びだったらしく、テストの点だのなんだの自分なりに頑張っていた世界が、崩壊していくのを感じました。弟は男児であるだけで最高の父の装飾品であり、適齢期になっても彼に「孫」を見せなかった私は、彼の不良品だったようです。
ただしそれは全て、彼を喜ばせるアクセサリーであり、いい娘さんですねと近所のオバサンに言われるか否かの瀬戸際における白黒です。彼を喜ばせると言う、娘としての役割を捨てた今は、実に気が楽です。やっぱり私自身と、彼は無関係だったのだと思えました。
■宮尾登美子の寒椿を読んでいます。たくましいヒロインたちの側には、常にだらしのない男がついて回ります。ヒロインが男に惚れきっていると言う場合もありますが、大体は、夢から覚める時が来るようです。
澄子の場合は物語冒頭で大怪我をし、しかし溝上が寝付いてしまった澄子へ惜しみなく療養費を出す描写があります。たくましい彼女達に、溝上の金というふさわしいものがある事で、延々と続く彼女達の人生の話を読んでいても安心感が違います。
民江の、犬か猫の様に男達にやり取りされていく様も、冒頭に、明るい高知の空の下元気に暮らしている描写があればこそだろうと思います。
蔵の時も思いましたが、書き得る「苦労」「汚いもの」「アンフェアに過ぎるもの」等に触れつつも、多分ヒロインに決定打は与えないんだろうなと思って読んでいます。
まさかヒロインが、全くの事故による怪我や、運命的な病気ではなく、それ系の場所に肉親の手で売られ、小学生の様な年で「仕事」をして、早々に病気になって、人に言えないまま、金にならなくなったから身内も来ないまま、いやしめられて見る影もなく亡くなったなんて、小説にはなりません。
蔵のヒロインは、先天的な苦難こそありますが、超絶美人です。読んでいてグッとくる描写は多かれど、ああ小説だなと何度も思いました。 |
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