■カラマーゾフの兄弟を読んでいます。アレクセイ達と長老の対面の場になりました。なんでフョードルなんて名前を、このキャラにつけたのだろうと思います。ドストの名前です。
ドストエフスキーの小説は。すごく清らかなものと「汚い」ものがいつも同居しているなと思います。わかりやすいのは、罪と罰のソーニャかなと思います。白痴のナスターシャも、本当は清らかだとか公爵がずっと弁明していました。
逆に。男達のどうしようもなさは、彼等に一定の地位がある分、時に本当にどうしようもないです。このままフョードルが殺されるのかなと思って読んでいます。
■週末、小説を書こうと思います。(趣味における)本業の一つルザ高&小さいキンちゃんの小説です。もう一つは、ピアノの森の二次創作です。
修平のパパのピアノは、癒しのピアノと呼ばれる、日本一と言っていい音色なのだそうです。そんな洋一郎氏が、どうしてあそこまで阿字野&カイを敵視するのか、ずっと疑問でした。
劇中で、修平がごく自然にマンガとして「カイがライバル」と認識します。ピアニストとしての運命、本能なのでしょうが、阿字野やカイにそんな「敵」はいない気がします。だから阿字野とカイは無敵なのでしょうが。
そんな阿字野先生のピアノが油、洋一郎氏のピアノは水だと、クリスティナ女史は言います。なんか逆じゃないかなと思いました。水のように変幻自在なのが阿字野で、油のように澄んでいるとは言い難いのが、パパじゃないかなと思いました。
でもそれぞれの志向する方向を思うと、女史の言う通りなのかなと思います。阿字野は油のように常に燃えていますし、パパは本当は心静かに暮らしていたい人なんだろうなと思います。
阿字野のピアノを聞くと心が燃え盛り、パパのピアノはパパが本心から望むような、静けさと癒しが聞いた人に訪れるのかもしれません。
だから阿字野のピアノは油で、パパは水なのかなと。確かに、阿字野とカイのピアノは可燃性な気がします。パパと修平のピアノは、当人達がそうであるように、地続きの安定感があるのかもしれません。そんな小説が書きたいです。平日なのでもう寝ます。 |
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