■あまりにも鉄を遠く感じるので。以前、外房・内房へ乗りに行ったことを思い出していました。優しい景色が多い内房に対し、外房は外洋に面している上に崖や有名な廃墟もあるので、両者は全く違う路線なんだなと思います。
乗り鉄って、乗る計画を立てるのも楽しいし、乗るのも楽しいし、「あの路線よかったなあ」と思い出すのも楽しいのだと知りました。
「時間があったらしようと思っていること」の上位にあった、「ルパンのテレビアニメ二期を存分に見る」を始めました。みんな声が若いです、五エ門は出てくるシリーズによって少しづつキャラが異なる気がするので、浪川さんの今の五右エ門も素敵だと思います。
■あまり気が付きたくなかったことに、気が付きました。気のせいだといいなと思います。
お腹がすいた時、しっかりご飯を食べても、なんとなしにまだ食べられる、食べなきゃと思う時があります。満腹感は遅れてくる、なんて可愛い話ではなく、食べ物全般についての飢えるような気持が、空になったお茶碗を見てもまだたぎる時があります。
なんでだろうと思いながら。
例えば自分は活字中毒なので、いつもすぐには読めないくらいの量の本がないと、気持ちが路頭に迷います。今読む本はあるのに、側に本がない場合の不安を思うと、つい本を抱え込んでしまいます。まだ大丈夫、本はそこにあると自分に言い聞かせています。
多分
物質的、物理的に満たされても、本当に「なかった」時の恐怖は早々消えないのかもしれません。「なくなる」恐怖もたかが恐怖なのに、リアルな怖さです。
ご高齢者がやみくもに何かため込んだりするのも、同じ思いなのかもしれません。かっこよく言うと、風と共に去りぬのスカーレットが、闇雲に現金をタンスの裏とかにしまい込み続けたのも同じかもしれません。
とにかく、「ない」恐怖は仮にご飯や安全が確保されているはずの時でも、簡単に蘇ります。人間の本能かもしれませんが、自分で自分の飢餓感に懸命に対応しているのに、心の憶測の不安や寂しさ、恐怖がドンドン湧き出る時は、どうにもなりません。
トイレットペーパーではないですが、「こんなに買ったから大丈夫」という理性さえなくなります。
理性じゃなくて本能の話なんだろうと思います。ネルフが攻め込まれた時のマヤのように、全く防御には役立たないだろうクッションを抱きしめて、大好きな先輩の面影の中でウットリするのがいいと思います。
竹渕も「来てくれる幻影」「抱きしめるクッション」の用意はあるのですが、続くコロナ疲れでいい加減弾が尽きそうです。
コロナ疲れでなくても。長年の「寂しい」という気持ちがうねりだし、仮に優しくしてくれる人がいても、「寂しいんだよう」と脈絡なく言い出し。「あたしの優しさが足らないとでも?」と怒られる事数回 だからお前は友達がいないんだよと、緑川さんの声で言われそうです。 |
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