■京都の四条大宮、あと金閣寺付近にフルーツパーラーがあるのですが。コロナで行けない今、学生時代に親の金で食っておくべきだったと思いました。同時にそんな食い方では美味いはずないとやはり当時と同じことを思います。
(学生時代は学費やら家賃やらの金額に圧倒され、贅沢はならぬと自分に言い聞かせていた。バカだったのか、Kになりたかったのか分からない。でもKが火のない火鉢とにらめっこしている気持ちはよく分かる)
■千葉に行きたいです。銚子電鉄がまずい事になっているのなら、銚子から外川まで何往復だってします。
(とりあえず「経営が(以下略)」と言われる、グンマのわ鉄・上信電鉄・上毛電鉄には乗った みんな素晴らしい鉄道だ)
でも行けないんですよ、と誰に言ったもんかと思います。暑い日に、千葉に行くのが夢です。Kになったつもりで、丁度いいやってくれと言いに行きます。
(物騒なんだが、Kと先生の緊張感がマックスだった頃なのかなと思う。千葉から帰った後、Kはお嬢さんへの思いを先生に打ち明けている。裕福な先生には思いつかなかったことだが、Kは自分の窮状を結婚によって打開しようと思ったのかもしれない。
そんな鈍い先生は、自殺の場所に多分千葉の海を選んでる。こころと言えば鎌倉の海で、千葉の多分内房の海だと思う。いずれも寂しい先生の、何故か安らぐところなのかもしれない。)
■暑い中、中学生時代は人並みに運動部に入っていました。文科系の部活がほぼ吹奏楽しかなかったので、楽器の出来ない自分は何とかなりそうなソフトボール部にいました。しっかり浮いてきました。
先生は真面目な方でした。
・土日の練習に付き合う ・マイクロバスを運転する ・きちんと子供達を、毎日指導する ・遠征先でアイスを買って食べる時は、子供達の分も買って食べさせる
・普通の授業も行う ・夏休み等も出勤して働く
年頃の女子ばかりだったので、先生キライ、先生ムカツクとか言い出す子が多かったですが、自分は「自分が大人になった時、こんな仕事出来るだろうか」と思いました。(実際生徒達にいじめられ、嫌われ、遠くの学校に転任していった先生もいた 自分はその先生が好きだった)
文学部で歴史専攻だった時点で、半分人生詰んだと、大学初日くらいで教授も言っていました。生きる道は教員だけだったはずですが、教員の課程を取りませんでした。あの狂暴な年頃の子供達に囲まれれば、病む未来しか見えませんでした。
文学部だのに選ばなかった教員と言う道ですが。自分はいい先生に出会って来たと思います。文句の多い自分でも、あの暑い夏の日に、くたびれているだろうに、過去問をもって職員室を襲撃しても嫌な顔しないでちゃんと彼は教えてくれました。 |
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