■ここ最近、「日本の女性」とは的な本を読んでいます。図書館で気になって何冊か借りてきました。どれも面白いのですが、悲しいがな「日本の家庭のありよう」とか読んでも、結構都会的な内容に思え、グンマの田舎の家庭は日本のスタンダードじゃないのかしらと思えてきます。
(いわゆる商店街がない地域に住んでいて、「町の八百屋さん」とか聞いてもピンとこない。野菜はもらうもの・作るもの)
そんな雑感を突き破って、じっくり読める内容が多いのでまだ何冊か読むと思います。
■この秋、夏バテはしなかったと思いますが、疲れています。コミケがないから気分が動揺しているのか、コミケがあればあれこれ無理してばてているのか、よくわかりません。いつだったかの年は、コミケ入稿後に通院していました。
以下雑感です。日文についてです。
・小さい頃から日文を読んでいました。和訳したものだけど、フランス文学、イタリア、イギリスものなども読みますが、日文がしっくりきます。
(中国物は、三国志以外特になじみがない。水滸伝は読んだが。横光のあの日あの時のシャープさと、ふっくら加減、みずみずしさが全てだったような気がする。)
日文なんですが。
いわゆる「昔の日本」を知るのに有用だろうと思います。今の小説が今の日本の状況をもとにしているのと同じように、(大体の子女が高校大学、しかも共学に通うとかの意味で)舞台は当時の日本です。
そこには、今のエライ人達が言う、「素晴らしかった日本の男女」なんかいません。やっぱり今の日本人の様に苦しんで、病気になって、男は女をいじめ、親は子供を苦しめ、子供は周囲を憎んでいます。
いわゆるエライ人が言う「昔の女」って。
多分、漱石鴎外クラスのエライ人達の主婦たちの事を言っているのかなと思います。漱石は当時の官僚レベルの収入、鴎外は医療界のトップです。つまり普通の人達じゃありません。
少し時代が下がって、細雪の時代でも、幸子の家には複数の女中がいます。お春たち上女中がお客様の応対などもつとめ、下女中が水仕事などしていた模様です。谷崎の、台所太平記でもそんな様子が読めます。
つまり
今の政治家たちがいう「昔の立派な女」というのは、文字通りエリート家庭の主婦の事でしょう。複数人の使用人チームを従え、夫の偉業をサポートする女性達は確かにいたと思います。それが中流以上の家庭の昔の常態だったのでしょう。林芙美子の家にも、「女中部屋」がありました。
今、住み込みの女中さんのいる家は、閣僚クラスの家か、芸能人、大会社の社長たちくらいじゃないかと思います。家電製品等が発達しても、使うのはやはり人間だとすれば、これはとんでもない事です。
昔は家庭と言うのは、いやおうなしに団体戦のチームの様だったのに。今はほぼ個人競技の様相です。自分で自分の事をすればいいのだけど、日本の男は自分で自分の事をしません。
一人で、サッカーチーム一個分くらいの義務と使命を家庭の女性は負う事になります。昔の「エライ」人の家の主婦は、使用人グループに命令することもあったでしょうが(細雪の幸子の様に)、今は何でもない男の家の主婦が、王様の様に振舞う男のために、育児介護家事等の一切を単身受け持つそうです。なんてしんどい。
お金があれば家事代行サービス等も使えそうですが、「自分(つまり妻)でやるのが一番」「金がかかる」「家事は真心を込めるべし」と、男達は言いそうです。なんで今の日本の男は、漱石でも鴎外でも谷崎でもないのに、「かしずかれる」俺になろうとするのでしょう。 |
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