■居場所がないので、誰かに「尽くす」事で居場所を得ようとしたんですが。
・そもそも、竹淵を大切に思わない相手に「尽くして」も、相手は何のことか分からない。
相手の需要も、相手とコミュニケーションしないと分からない訳で、「なんで竹淵さんそんなことしているの?」という事になる。聞いてくれればまだいいけど、変人扱いで終わると思う。
何らかの上昇できるコミュニケーションの取れる相手・関係だったら、そもそも「相手に全力で尽くして居場所を与えてもらう」という発想になるだろうか。
・結局、実りのないことに時間とお金と体力をかけ、キレ、「なんで!」と怒りだし、居場所になってほしかった相手?にも逃げられる。
愛情?も友達?も今後(無理に)求めなくていいなと思いました。寂しかったら、物言わぬ自然や鉄道があります。
■図書館に行って。ふと児童書コーナーに「お友達って?」という絵本があったので読んでみました。絵本いわく
・お友達は、あなたの事を笑ったりしません
→竹淵は、ニキビや体毛、発達障害傾向の言動で、笑われて中学時代を過ごした
・お友達は、あなたからお金を借りて返さない事はありません
→友人?にしょっちゅう、テレホンカード貸して!と奪われ、点数が減っていた
アタシの宿題、竹淵がやっておいて!アタシ遊ぶので忙しいの!等、日常だった
・お友達は、あなたの嫌がる事をしません
→上の「友人」じゃないけど、「竹淵でも、男の子って気になるの〜?」とニヤニヤしながら「グループ」で詰め寄られ、「異性に関心がない」と言えば異常者扱いだし、「異性に関心がある」と言えば、アハハハエッチーとゲラゲラ笑われる地獄の二択だった
あー、「あの人」友達じゃなかったなと、今になってやっぱり思いました。田舎の学校なので、「お友達がいない」となると、教師達からの目が厳しく、内申書にも響きます。
なによりなんでも「グループ」単位で行動させようとするので、ぼっちにとって学校は雪山より過酷な場所になります。
結果、他人に笑われてバカにされ、少ない小遣いを巻き上げられ、宿題をさせられても、「誰か」と一緒にいないと生きられません(本当に生存不可)
こんな日々終われと思って数十年経ちました。もし自分が母親になって、「あの日々」を一からもう一度味わえと言われたら多分詰みます。 |
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