・高慢と偏見の続編を読んだのですが。(1993年刊)
・え?この人達の一族ってこれだけ?ダーシーには叔母はんと従妹と妹だけ。もっと男いなかったのか?そりゃあ数少ない身内?みたいなビングリーの周囲と、ジョージアーナがくっつくのは仕方ない?
エリザベスには、毎度お馴染み母と姉妹達。そして唯一の「常識人」ガードナー夫妻。あとコリンズ一家。
・・・・数えればそんなものなのだけど。本家の方で、寂しいとか思った事がなかったです。ベネット家の暮らしだけでも明るかったから(浪費・怠惰・無関心など問題点は多かったけど)
続編に、本家と同じだけの行間は出せないよなと、当たり前のことを思いました。(ドタバタはよかったけど、最終的にビングリーが婚外子ありだったのと、エリザベスが最初から最後までヒステリー気味だったのが困った。いつも堂々としたのが彼女だと思ったけど)
・イギリス小説の読み方、というある意味「読んでもなー」という本を読んでいます。「読んでもな―」と思うのは、自分の読んでいる本が余りに少なく、「ディケンズは全巻踏破して当たり前だよね」「エリオットはねー」という、読んでいない本についての文章が読めないからです。
それでも読みますが。オースティン、ブロンテ姉妹などについての文章は楽しく読めます。
で
限界について
漱石の坑夫が読みにくい様に
志賀の描く「若者」が余りに志賀っぽい様に
谷崎の描く女性達が、余りに芝居っけがあるように
荷風の描く女性が、絶対堅気じゃないように
横光の描く女性がみんな同じなように (いや本当にさ)
セーラームーンには貧乏人が出てこない様に (武内先生は当時からして、高級車に乗っていた)
シャーロットの描く「シャーリー」が、社会派なんてことなく、ビジネスマンと専業主婦希望の乙女の、いつものラブロマンスである様に
そしていつもシャーロットの描く女性が、不倫願望ありなように
エミリの描く小説が、嵐が丘一作だったように
なんか作家には限界があって。調べて書くとか、関心を持ってかくとかは出来るだろうし、皆やっているとしても、「限界を外れてしまった」場合、上手く行かない様です。
オースティンが自分の知らない階層を描かない様に。(社会派的な目から見れば、エマの暮らしなんて非難されるだろうけど。エマには、ナイトリーに導いてもらう「あんな」生活しかない。そのなかで、彼女は向上していくしかない)
限界というか、範囲ってのがある、その内側で書くといいよねという批評?があって、なるほどと思いました。 ------WebKitFormBoundaryhB4dLK1h6cv2NnNf Content-Disposition: form-data; name="image"
|
|