漱石の「道草」を読み終えたので、図書館に返してきました。主人公の健三について、考えていました。何度も読んでいる小説ですし、今更何をいう事もありませんが、いい加減大人になって読んでみて、驚いた事がいくつかありました。
→健三には2人の娘がいて、さらに劇中で三女が生まれている。健三は仕事に追われる毎日だが、「娘のために頑張らなければ」とは思わないらしい。むしろ、「娘なんか生まれたから、俺はくたびれる一方だ」くらいな人。健三にとって仕事とは、己の理想を形にするための労働であって、「愛する家族のために」という発想は余りない。時代性だろうか。
→健三の子供が女の子で良かったと思う。妻の弟が頭はいいものの、真面目でない青年だったから、自分の理想とする教育を施してやろうとして、彼は失敗している。時代性や、健三の考え方から言って、女の子に自分の理想とする人間像をぶつけたりはしない気がする。仮に生まれたのが男の子だったら、「俺は自分の理想を自分の子供にすら届けられない」とか言って、落ち込んでいそう。
→こんな健三の妻、御住はもっと注目されてもいいと思う。時代性から言って、女性が耐えるのが普通なのかもしれないけれど、彼女は実によく耐えている。健三と必ずしも一致しないが、漱石は死後、鏡子夫人の希望で脳を調べられたという。余程、夫人は思うところがあったのだろう。偉い女性だ。
さる女性が書いたエッセーで「まだ付き合って間もない男性、ないし付き合ってもいない男性に対し、この人と結婚したらこうかなと考える事がある」という一節を読み、納得しました。一方男性は、目の前の事しか思わないのだというオチのエッセーでした。そういうイメージトレーニングが的確にさえ出来れば、無駄に手負いになる事もないのでしょう。
そんな訳で、二次元であれこれ思いをめぐらせるのも、理由のない事ではないと改めて思いました。先日日誌で触れたバレンタインネタではないですが、私はチョコレートファウンテンを出先で食べた事があります。まだチョコレートファウンテンが珍しい頃でした。
自分では精一杯のお洒落をして、地図なんて調べてみて、天気のいい日にそのレストランで待望のチョコレートの滝に出会ったにも関わらず、全体的によい方の思い出ではありません。
よい方の思い出でないのにも関わらず、自分は思い出の整理が下手なので、気持ちよく消えてくれません。チョコレートは大好きなので「ああいっそ、自分じゃない誰かがあのチョコレートの滝を美味しく楽しく食べて、その姿を私に見せてくれないだろうか」と思うのです。全てが恥部でしかない記憶なのに。否、全てが恥部だからこそ、駅に癒されたい部分なのかもしれません。
(新宿の駅達で一番の甘党は、凛太郎なんだそうだ。一が可愛くマシュマロとか食べている横の、溶けたチョコをなみなみとマグカップで飲んでいる凛太郎を見て、吹と零二が胸焼けしてそうだ。一は「美味しいよ、これ」とか言って頓着せず滝に挑んでいそう。凛太郎は普段忙しそうなのに、無性に甘いものを食べたい時は弟達を誘いそう。)
平成23年11月11日 竹淵 拝 madeingermany193☆yahoo.co.jp ☆→@ |
|