書いていて楽しいことを先に1つ。
新宿の花園神社は、古い区でいうと四谷区にあったそうです。零二の駅舎にあるスタンプは花園神社なので、特別区の位置関係でいうなら、零二はイメージ的に、旧四谷区の駅なのでしょう。中央線の四ッ谷さんから見れば、零二は可愛い盛りの駅でしょうか。
吹と一は恐らく旧淀橋区です。ですが、どこからどこまでが新宿か特に誰も気にしないと言うのが、新宿在住の駅達です。それに花園神社自体、第一に地元の方の神社でありますが、街道に近い事もあって、昔から行き交う人全ての神社でもあります。花園神社は今も昔もあんまりこだわらない、大らかな慎兄ちゃんのような存在であります。(あくまでミラトレ的にって意味で)
(同時に、吹の所の熊野神社のひっそりした感じは、また別の良さがあると思う。夕方に行くと、都内なのにカエルの声や、虫の音が聞こえる閑静さ。)
東野圭吾の作品を図書館で借りて、まだ読んでいないものが何冊かあります。「幻夜」のあの厚さにも圧倒されないで、一週間前後で読んだ様な勢いが欲しいです。
なんであんなに、「幻夜」に引き込まれんだろうなあと思います。よく言われる事ですが、氏は映画監督になりたかったというくらい、視覚的な感覚に優れた方だと思います。作品を読んでいると、例えば行ったこともない様な高級ブティックなどをまざまざ想像する事が出来て、登場人物と一緒に「冒険」している臨場感を与えてくれます。
その特徴のためより一層、悲運の美男美女の、貪欲に世間に挑戦していく姿が格好良く見えたのだと思います。よく読むと、雅也は美冬に利用されただけで、美冬は一人でも十分生きていける女性だという事が分りますけれど。
「幻夜」の悲痛なラストは何かの間違いだったと思っていたんですが。水原雅也が東野圭吾の作品の中で、特異な存在ではない事が、今は分ります。
若くて有能で、どこか人がいい美男子が、夢の様な美女に惹かれて翻弄され、狂気を愛と勘違いしながら破滅していく悲劇。っていう話は、繰り返し求めるものでもないなと思うようになりました。もう東野圭吾の本を10作くらい読んでしまい、そう思います。
読んだ中で特に違和感があったのは、「さまよう刃」でした。娘を奪われた父親の復讐劇という、ある意味王道な話ですが、繰り返し出てくる少女へのああいう描写に必要性があるんだろうかと思いました。説明的に繰り返される犯罪の「描写」が、冗長に思えました。
地の文として繰り返されるならまだしも、父親が繰り返し、その犯罪のビデオを見る必要性があるのかと思いました。父親なら、娘に危害を加えられたという事だけで、十分復讐の思いにかられるのではないでしょうか。
「秘密」も、配偶者ないし娘の電話を、盗聴器を買ってまで盗み聞きする事とかありましたし。平穏無事な人間関係なんて、流行小説にはならないのかもしれませんが。恋人の手紙を盗み読むとか、退勤後に尾行するとか、普通にこの方の小説だと行います。
東野圭吾が人間の黒い部分を、恐れずに書き出すことは評価します。でも抱擁的なユーモアは、行間に満ちているダークさに比べてずっと少ない気がします。
平成24年5月14日 竹淵 拝 madeingermany193☆yahoo.co.jp ☆→@ |
|