高松の事を思うと、意外なことに人くさいなと思います。人柄全部人非人ならいっそ彼も苦しまないだろうと思うですが、ああ見えてスキンシップ大好きなのが微笑ましいと言うか、グンマが「ああすると高松は喜ぶ」と分ってしまったと言うか。
「自分で何でも出来る」と高松に啖呵を切ったのは、グンマとキンちゃんでなくて、キンちゃん一人だったんだじゃないかとすら、思えてきました。24歳の体で生まれて、それなりの行動も求められているキンちゃんなので、いつまでも高松に甘えられないと(何そんなに甘えたんだ)キッパリしてみせたのかも。
グンマは高松が出て行っても、「へ〜」としか思わず、あたふたと自分の仕事に挑むキンちゃんの横で、お菓子食べるか、玩具モドキ(人命のかかった軍用メカともいう)を作っていそうです。
高松がいなくてもグンマが大慌てしなかったのは、キンちゃんが気合入れていたからで、「高松なんていつでも呼べば来る」と未だに思っていたからでは。グンマにとって高松は絶対に側にいるもの、自分の絶対的な味方なので、物理的に離れていても気にならなかったり。一方キンちゃんは、高松にある程度のものを見せてやりたい気概もあるし、「グンマは俺が守る」と意気込んでいる向きもあります。
結局高松は戻ってきてしまって、グンマに甘えてもらえる幸福を噛みしめてしまいます。野生の母キツネの様に、大きくなった子キツネを無理に巣穴から追い出すような気迫は、高松にはないかもしれません。唯一グンマとキンタローが、彼が自分自身に許した幸福なので、厳しいことをいう気になれません。
そんな高松が冷たくブチ切れることが、パプワとチャンネル5の間にあったのでしょうか、「ジャンのいつもの裏切り」。
ジャンは、高松の事を何も分っていなかったのだなと思いました。ただの研究好き、ただのサボリ魔に見えていたのかもしれませんが、高松をよく知っている人なら、彼を怒らせる様な事を避けます。ガンマ団の若手ですら、「ドクターは普段でも既にやばいのに、怒らせるともっとやばい」と知っているのに。キングギドラ。
モーパッサンの「女の一生」を読んでいます。女の一生と言いつつ、ヒロインが修道院から出て若くして結婚して、孫が出来るあたりまでの話なので、女の一生というタイトルにはいつも違和感があります。フランス語で「UNE VIE」なので、女性という言葉も、一生という言葉も原書にはありません。
高校の世界史の授業で取り上げられたり、大学の語学の授業でも触れられたりと、何かと接点が多い小説です。・・・・自分もこんな、「翻弄される優しく美しい美女」に憧れた時期がありましたが、ジャンヌとは似ても似つかない人生を送っています。周囲に甘えている部分は似ているかもしれません。
モン・サン・ミッシェルくらしかノルマンディを旅行したことはありませんが、パリでノルマンディ風のご飯を食べたことがあります。・・・・ヘタリアにはまった事もあり、もともと歴史ものが好きなのとで、心だけ旅行に行くことがよくあって、今気分だけノルマンディです。小説って便利。
明日、鈴木達央さんの出る芝居に行ってきます。達はOCDのライブでもなければ、声優さんのイベントでもないとキッパリ言いますが、頭の中に欠片くらいどうしてもあるのは、許して欲しいと思います。むしろ、「こんな幅のある演技も出来るんだ」と思って、明日は帰って来たいです。
前野さんが、俳優さんは体全部で演技出来て、声優さんは声一本という事に触れ、「図書館戦争の堂上を体全部で演じられる実写の俳優さんが羨ましい」と以前言っていました。達は、「声だけ」ということに強いこだわりがそんなになかったと思うので、今回はさらに自然な達の演技が見られるのかもしれません。
ご覧になった方が、「達に合っている役」と言っておいでだったので、気持ち的に落ち着いて劇場に行けます。 |
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