日本で有名な坊っちゃんと言うと、漱石の坊っちゃんでしょうか。氏名は劇中に出てきません。ある程度のお家に生まれ、父母兄と打ち解けずに過ごすも、奉公人の清だけは坊っちゃんを大事にしているという話です。普通に読むとすがすがしい話なのですが、土居健郎先生の「甘えの構造」で解説されて以来、坊っちゃんも悲しいんだなと思うようになりました。
この坊っちゃん、理系偏差値は抜群に高いのに、どこかおっちょこちょいです。幸いドジなくらいで愛媛の学校を追い出されはしないのですが、自分から東京に帰ってしまいます。ずっと清は四国に行った坊っちゃんを心配していて、坊っちゃんが帰ってくると泣いて喜びます。
今思うと、この坊ちゃんのドジ具合がすごかったです。教員として赴任し早々、団子や天ぷら蕎麦を食べ歩き、同じ学校の先生に指摘されるんですが。確か赤シャツに「物質的娯楽より、精神的娯楽を」を指摘され、坊っちゃんは「マドンナに会うのも精神的娯楽ですか」と言い返します。職員室の雰囲気は険悪を通り越しで最悪でしょう。人の許嫁を奪っておいて、娯楽も何も。こういう場の空気を読まない坊っちゃんもえらい子ですが、書き切った漱石もすごいです。
何度も読んだ坊っちゃんなので、何かを考える時に参考にする時があります。清が坊っちゃんに「家を持つように」「結婚をするように」「将来立派な人になるように」とよく言うのですが、清はそう願う事がまず第一に楽しみなのであって、決して坊っちゃんを一角の者にして、自分がいつか楽をさせてもらおうとは思っていなかったと思います。坊っちゃんの父親が亡くなった後、清は清で甥の所に身を寄せたくらいですから。
パプワの高松について、「グンマとキンタローの側に張り付いて何がしたいんだ」という指摘をどこかで読んだのですが、高松も清の様に、決して尽くした相手に多くは望んでいないと思います。願うのは相手の幸福と、自分の事を無関係だとは思って欲しくない事くらいでしょう。(PAPUWAのグンマはあっさり心の中で高松を切ったっぽいが。私を無関係なんて思わないでって実はとても重い願いかも。)
クリスティー等イギリスの小説に出てくる、子供とナニーの関係に似ていますが、育児のプロとしての色合いが強いナニーと違い、古めの日本型の母子関係が元になっている分、密着性、母子の同一性が高いようです。清は単なる奉公人として坊っちゃんを見ていたのではなく、書かれていませんが、色々な辛い事情を越えて坊っちゃんの家に来て、坊ちゃんを愛する事で、自分も支えられていたのではと思います。
パプワと漱石には何の関係もありませんが、いうなれば高松の内面はそんな感じかなと思います。単なるギャグストーカーおじさんなら、グンマとキンタローのためにガンマ団から離れたりしないでしょう。
個人的に高松の隠居は、シンタローの高松嫌いと、グンマの「今後は高松より、お父様や叔父様達、キンちゃん、シンちゃんについていた方が安全」という意図的な計算に、キンちゃんも流された結果だと思っています。高松なんだからちょっとくらい何か言っても平気とキンちゃんも油断していて、気がついたら高松が研究機材その他をさっさとまとめていて、焦って泣き出したとか。春先の朝、保育園の玄関にいそうな親子。「ママ置いていかないで」って。
(グンマも気が付いていると思うが、マジック達の側にいれば青の一族としての役割や能力を求められるわけで、些細な事で泣いても、さっとハンカチ差し出してくれそうな男はごくわずか。血縁に依存するのは結構だけど、そんなに楽な相手じゃない)
どっかの誰かみたいにえげつない大人(※褒め言葉)になったグンマは兎も角、キンタローには意見していく高松。「貴方は大勢の人間の上に立たねばなりません。これからはご自分のおっしゃった事、命令された事の影響を考えて行動なさって下さい。」って。それでもまだ高松を出て行かせまいとするキンちゃん。「お母さんお仕事行けないでしょ?」と高松言いそう。でも「5時に迎えに来るからそれまでいい子でいてね」とはキンタローに言ってあげられない高松。
キンちゃんがPAPUWAであり得ない程働いている背景に、高松の影を感じます。シンタローは「俺の身内だ、これくらい当然」くらいにキンタローの働きを見ているのだろうけど、ちょくちょく従兄弟がコッソリ高松に相談しているのを知ってるグンマは、やっぱりえげつなく高松の無償奉仕を無視しそう。(無償なので無視する事が悪いわけじゃないとは思うよ?) |
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