南国とPAPUWAとチャンネル5がつながっていて、高松とジャンは南国からの同一人物であるとしての雑感です。PAPUWAでチャンネル5では40代で他界したらしいサビが健在なので、多分チャンネル5は別次元の物語だと思いますが。
エドガー・高松・ジャンの共通点は「好きな人に置いて行かれた」事です。正宗、ルーザー様、サビはそれぞれの理由で3名より先に他界しています。でもエドガー・高松・ジャンが「それぞれの好きな人」について腹を割って話した事はないでしょう。男性が男性を好きなった羞恥故ではなくて、エドガーが正宗を好きになったのはごく最近であるし、高松はジャンのせいでルーザー様を失っています。ジャンは高松を、サビが高松に対しそうだったように一匹の働き蜂くらいにしか見ていないので、崇拝し愛していたサビの事なんて、高松に対等の親近感を持って話す事はなかったはずです。
エドガーについてチャンネル5冒頭と未完になった直前の部分を見ていると、高松もルザ様を失ってエドガーの様に暴れる事があり得たけど、グンマと「ルーザー様の息子」のお蔭で思いとどまったのかなと思います。エドガーより高松の方が性格が悪いので、愛していた男を「恩人」と読みかえて(恩人で正しいんだけど)、半永久的に公然と慕い続ける方策を取っています。正宗への気持ちを隠さないエドガーはいいなと思いますが、エドガーのためを思うなら、自分の恋は「母星のため」とかいう隠れ蓑でしまっておいた方が、穏やかに事が進んだかもしれません。刃が憎いなら自分が科学者であるメリットをフル活用して、そっと闇討ちにするとか。高松ならそうします。
高松の場合キンタローと出会ったから、四半世紀の恋が無駄にならなかったと言うか。よく高松はキンタローと出会うまで自暴自棄になるのを我慢できたと言うか。エドガーの場合、妻子への愛と母星への父の代からの忠誠心で一杯の正宗に対し、友人の一人であった彼に何が出来たんだろうなと思います。エドガーも最初は正宗の大切にしていた母星のために尽力しようと思ったはずですが、徐々に母星にもジャンにも紅や光にも情愛が続かなくなったのでしょう。
高松もルーザー亡き後、別にガンマ団に未練はなかったと思いますが、自作自演の「恩人のルーザー様の息子と、息子を育てる私」が意外と心地よかったのでしょう。
自分の妄想だと、生前のルーザー様に高松は「僕はお前に好きだとか愛しているだとかは言ってあげられない。僕はお前が想像もできないくらい多くの人間を殺し、傷つけている。お前を僕のしてきた事に巻き込んで不幸にしたくない」と言われ、返事として「なら私は貴方が殺し、傷つけた人達より、一人でも多くの人の命を救う医者になります。だからいつか私に好きだとおっしゃって下さい」と言っています。
何だかんだ言って、高松とルザ様は意思の疎通があったと思います。高松が目の前に好きな人がいて、どこまで大人しく出来たかがそもそもあれなので。ルザ様も熱に浮かされた目で見られて嫌だったら、早々に高松を遠ざけたでしょうから。その後の高松とキンタローの様に、育てる上でルザ様が高松に注いだ愛情もふんだんにあったと思います。高松のキン・グンへの愛情は、ルザ様とそうでありたかったからという憂さ晴らしではなく、ああいう全身全霊の愛をルザ様と育んでいたからだと思います。
ジャンとサビの場合は、サビが人外と付き合っている自覚がゼロなのが何とも。ルザ様、マジック、ハレ、シンタローならサビに愛情を捧げても、それが滅茶苦茶な愛し方だったとしても想像の範囲ですが、ジャンは(略)。取りあえず「人体」「生命」「死」「子供」「人間」等についての感覚がジャンは(略)。高松は悪い事していても自覚がありますがジャンは(略)。
幾原監督の「輪るピングドラム」を見ています。監督は「セーラームーンR」の頃から変わっていない部分があるなと思います。「特別」「運命」等のワードに弱いのかなと。「セーラームーン」無印は「誰だって頑張れば輝ける」というメッセージがあったと思うのですが、いつのまにか「R」「S」以降「特別な女の子の特別な話」になっていった気がします。魔法少女や少女漫画のいいところは「誰だって幸せになり得る」という明るさ、気楽さだと思うんですが、幾原監督が音頭を取ると、「特権をもった特別な少女の特権的なお話」になっていくのかなと思いました。だからいつでも作品が悲壮的になるのかもしれません。「普通」「平凡」な幸せが作品全体的に少なくなるというか。 |
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