もしシンタローが。
■「仲間」と言えるミヤギ、トットリ、コージ、アラシヤマは自分の子飼いでも乳兄弟でもなく、父であるマジックが育成したガンマ団の団員である事を思い出さないだろうか。PAPUWAで好きなように蹴ったり殴ったりしているリキッドも、シンタローとは直接縁がなく、マジック・ハレあっての特戦のメンバーだった事を思い出さないだろうか。あれだけマジックに反発していたのに、和解の気配すらなんら感じさせないまま、真っ赤な総帥服着ているシンタローって?
PAPUWA読んでいると、「やっぱり総帥はマジックだし、ガンマ団にはハレと高松がいないと不安だよね」と思う。高松は「シンタローがいない」からキンちゃんの呼び出しに応じたと思う。キンちゃんも、こんな巨大組織自分等だけじゃ無理と薄々思っているんだけど、シンタローに合わせている限り陰で高松に頼るくらいしか不安が解消出来なそう。7巻で高松を呼び出す時の困惑したキンちゃんの表情は、隠れて会ってた相手がしらじらしく久しぶりみたいな顔でやって来る気まずさだと思う、若いなあキンちゃん。キンちゃんは世間ずれしていないけど(≒世間知らずだけど)、高松に対してなら普通の反応が出来るらしい。高松のエスコートのせいか。
■歴史物でよくある、「父子二代に仕える家臣」というのは大変いいものだと言う事を、分からないだろうか。ライオンパパとマジックの間でガンマ団が変化した様なので、古参の団員とくればハレと高松になる。飲酒家の叔父でも、喫煙家のドクターでもいるだけで凄いバリューなんだという事を誰か言わないのか。キン・グンがいる限り高松はガンマ団に弓を引かないという事が今更ながらすごく思える(だからチャン5は)。ガンマ団と同等の団体からオファーが来ても、「ルーザー様への恩義に背くわけにはいかないので結構です。」と断っただろうドクター。カッコいい。ハレもシンタローの背後にマジックを感じるので、ぐれてみせるくらい。
■弟であるコタローを幽閉しているマジックの手から自力で救ってみせて、悪の団体であるガンマ団を一掃する事が出来たなら。南国は当初そういう話だったけど、ガンマ団以上のパワーをシンタローが築けなかった。シンタローの「仲間」と見なされているミヤギ達は「秘石を取り戻せないまま帰還したらマジックに殺される」からパプワ島にいたのであって、他に特に理由はない。
ミヤギ達以外の刺客で秘石を奪わずに帰還していった団員が多数いるけど、ミヤギ達が残ったのはアラシヤマの様に自分が格上の団員であるという自負のためだろうと思う。素直にガンマ団に帰ったどん太、他アニメの刺客達はマジックに殺されなかったみたいだし。
■幽閉されていた数年ですっかり心身が荒れてしまったコタローを、兄としての愛情で救ってあげる事は出来なかったのか。キンちゃんにコタがすぐ馴染むのは不自然であるし、南国は「冷酷なマジックからシンタローが世界と弟を救う」話だと思っていたかった。小さい頃は南国&PAPUWAがどんな話なのか知らなかったから、大人になって読み返すまで漠然と「シンタローに救われるコタロー」をイメージしていた。
コタに「力」の使い方を教えたのはルザ様らしいし、コタの暴走を止めたのはマジック。マジックはコタの暴走を「かわいそう」だから止めたのではなく、「シンタローが危ないから」という理由で抱きかかえて止めたと思うけど。昏睡したコタを見守ったのは医者の高松であり、目覚めたコタを受け入れたのはパプワ島。大人になったコタが所属しているのはハレの特戦。シンタローとコタの接点って何かあったっけ。
シンタローとコタの関係って単なるシンタローの少年愛にしか見えないのが悲しい。少年愛が悪いとは思わないけど、コタにとってシンタローの感情は不毛な気がして。(※狭義の少年愛って本来もっと豊かな物です)
高校時代の夏休みに夜明けまで漱石の「こころ」を読んだ事があります。何度も読んでいるので内容は暗記している様なものだったのですが、先生とKが御嬢さんをめぐって気まずくなって、Kが御嬢さんへの恋を先生に打ち明ける流れはページをはぐる手が止まりません。こういう「語り」の小説は谷崎の「鍵」「瘋癲老人日記」他の様に、「何か大事な事を隠している」と疑わせることがありますが、「こころ」の先生にならミスリードされても文句ありません。
先生の語りで印象的なのは、Kのちょっとした挙措まで明確に、感情をこめて話すところです。Kは何か言おうとする時に唇をもごもごさせる癖があるんだそうですが、その癖もきっちり覚えている先生。御嬢さんについては大まかな感想しかないのに。「私」の先生への温かいまなざしも特徴的ですが、Kが死んでしまって先生はどんなにか寂しかったろうと思います。先生は御嬢さんと結婚していて、仲は良いけど偽造っぽいねとは結構あちこちで聞く指摘です。
銀杏が立っている雑司ケ谷墓地にたった一人で詣でる先生は、南国&PAPUWAのドクター高松に近いなと思いました(逆だ。竹淵がそう思うだけで、こんなこと国語の授業中にあれこれ妄想していた懐かしい過去)。高松もルザ様との思い出や、自分に残されたルザ様についてのものは、一人で大事にしていたんでしょう。実子とされていたグンマには「グンマ様にはまだ早いと思います」と、言葉巧みに触らせなかったと思います。
もっとも高松の場合は「こころ」の先生の様なストイックさは少なく、ルザ様を失ってなお遺児を育てる高松に同情的なマジックやハレの目こぼしのお蔭で存分に「ルーザー様への恩返し」をしていたので、意外と高松は周囲に甘えている人かもしれません。
「こころ」の先生が「私」に出会って、Kとの思い出と昔の御嬢さんである自分の妻を「私」に与え、一人で死んでいった姿は高松に…近くありません。漱石だから文学的に小説を終わらせる努力をしますが、南国&PAPUWAはほぼ全てが放置されています。脳内で補完する自由が多いと言うか。
キンちゃんに「こころ」の先生並の打ち明け話をしただろう高松。自分の思いが貴方の血肉になればいいという、カッコいい思いはあれど、その後シンタローが行方不明になったくらいでいそいそ帰ってきちゃあ&呼んじゃあ駄目でしょう。キンちゃんもキンちゃんで、南国&PAPUWAには「御嬢さん」も「お静」も「その後の私と静の子供達」も登場し得ないせいか、高松と仲良く現状維持らしいです。
高松とキンちゃんが鎌倉(先生と私が出会った場所)・房総(先生とKが旅行した場所)に行っても、シラス丼や刺身を食べて遊んだり研究したする気楽さかも。向上心のないものは何とかだという御題目には高松も同意するだろうけど、向上心故に好きな人に死なれては嫌かなと。(ルザ様も激しい向上心の持ち主だった気がします。) |
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