「ケエル」を読んでたんですが。ケエルの外見がポニーテールの白シンちゃんみたいだと思いつつ、オチのなさに「カミヨミ」を思い出しました。カミヨミの方が巻数も項数も多いですが、基本変わりないのかもしれません。美少年・美青年に対してもこちらが思う様な「救済」を最後まで感じさせないのが通常運行らしいです。女性キャラに対しては出た時点で構える事にしています。
「救済」というと大げさですが、「よかったね」くらいの感じが見られればそれでよかったんです。星矢のロストキャンバスでアローンが救済と言って大勢の市民を虐殺していますが、アローンの場合、救済の内容が克明に描かれている事と、アローンとサーシャ・テンマのやり取りが主眼に据えられているから物語として成立していたんだなと思います。柴田亜美作品の場合主人公側と思しきキャラ達の方が虐殺して回る方の立場なので、そんな人に対抗できる「家族」や「恋人」でもいない限り、説明不足のアローンみたいな「救済」になるんだと思います。
(マジックとコタが実にそう。幽閉がマジックのコタに対する本気の解答だったんだろうなと思う。原作者の家族観がそんな感じなら仕方ないけど、テレビアニメが南国だと思っていた層の事を思えば、マジックの直系家族の団欒は必須だったと思う。シンタローがマジックの束縛を避けつつ心地いいと思ってる事が透けて見えて、若い恋人同士の様な雰囲気がマジシンにある。
南国で想定されていた「父子対決」は何故か新顔のルーザー様とキンちゃんに譲られ、高松を泣かせる事に。でも父子対決に必要な「エディプスコンプレックス」は父と息子から愛されている、妻であり母親である人の存在がないと発動しないと思うので、マジシンには起こり得ず、ルザ高とキンタロー坊っちゃんには起こり得た気がしないでもない。)
今川監督のGガンを見ています、以下は雑感です。
■お兄さん、ないしお父さんが悪い人だと子供がどう生きねばならないのかという見本の様なアニメを生み出す監督なので、今自分が描いている南国&PAPUWAにも大いにカスり、ハラハラして見ている。ハラハラしつつ滝壺からガンダム出てくると笑う。
■銀鈴も彼女自身は何もしていないのに18歳で死んでいったのだけど、ある種芸術まで昇華された最期だったと思う。監督の場合、お気に入りのキャラだから無傷でいさせるとかないので、最後にはどのキャラも満身創痍だったと思う。「創痍」ぶりにハラハラドキドキを通り越して、ゾクゾクさせてしまうのは監督の罪だ。
■柴田亜美先生も男キャラを何としても出すけど、今川監督の場合女性キャラが動かせない・好まないというより、出すと「馴染みやすくいい感じの姐御、令嬢、奥様」になる様な気がして、かえって周囲の男性キャラ達の子供じみた暴走を緩和出来る女性が多いと思う。柴田亜美先生の場合は、出てくる女性という女性が不幸になるか、不幸の源泉になってしまう気がしないでもない。
■男キャラのネタ数が多いのは流石今川監督と思う。キャラも物語も男ばかりながらグイグイ来るので、「そういえばヒロインって放置じゃないか」としばらく経ってから気が付く。柴田亜美先生の場合、男の顔と体をしているキャラの中身が女王だったり、妹だったり(サビ)、姉だったり(カミヨミのアレクサンドル)、母親(高松)のポジションだったりするので侮れない。男らしい男のキャラって、マジックやコージくらいぶっ飛ばないと少ないかも。男らしい男があふれているアニメが見たい。 |
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