谷崎中期の作品をいくつか読んでいます。雑感です。
■谷崎中期の小説は中断されたものがいくつかありますが、読んでいると成程ここで中断されたかと納得出来る事があります。時期的に離婚騒動や叶わなかった再婚話、多くの女性に揺らいだ谷崎らしい激動が小説から伝わります。漱石なら入院等で休載はあっても未完は明暗だけです。その明暗も死後何日か分はストックされていました。
漱石も自分の分身を小説に多く登場させますが、筆の上で谷崎の様な暴走はしない人なので、穏やかに筆が進むのでしょう。漱石は文筆に平安を求めていた人でもあり、谷崎は逆に筆さばきが常に暴れています。完結した場合は筆が暴れ切った場合で、未完の場合は暴れ過ぎてフェードアウトしたという印象ですから、いずれにせよ暴れています。文章や文脈が乱れているという意味ではなくて、「おっさん今日も元気だな」と思う意味で暴れています。
■谷崎の小説だけじゃないかもしれないけど、谷崎は兎に角人物がよくしゃべるか、全くしゃべらないかのどちらかだと思います。細雪の雪子は無口で有名だし、他の小説の女性も寡黙か多弁の極端な気がします。でも、谷崎のヒロイン達は「足を眺める」ために存在する様なものなので、「足の表情」について熱心な作品に出てくる女性に、現代的なキャラクターは不要かもしれません。
■谷崎の小説で「よくしゃべる」のは、軽々しい性格のキャラか「語り部」になります。春琴抄では意外に佐助がよくしゃべりますが、「語り部」が春琴と佐助の後ろに構えているスタイルになっています。春琴と佐助のやり取りは読み手の「想像に任せる」仕様か、両親や弟子達に「自分達は彼等をこう見ていた、こう感じていた」と言わせていて、はっきりした春琴の発語などは少ないです。谷崎自身は私利私欲に対して竹を割った様な男なので、何でも口にしそうなもんだから、谷崎の小説の中の「寡黙さ」はレトリックだろうと思います。
■ルザ高を書くのに、谷崎の手法はありがたいなと思いました。近年の小説なら、「ルーザーは何をしてどう思って、何を言った」等克明に書いて話を弾ませ、ルーザーというキャラを浮かび上がらせないといけませんが、谷崎の手法だと、じっと沈殿している姿のままルーザー様を書く事が出来ます。いい小説になるかどうかは分りませんが、高松とどうしたこうしたを分刻みで書くよりも、自分には合っているかなと思います。(文豪の真似なんて怪我しそうだけど、そんな怪我ならいくらしてもいい)
南国における高グンは半ば公式になっているので、アニメのDVDなどを見るとすがすがしいです。ですが南国の漫画を最後まで読んでしまうと、高グンの楽しさ、可笑しみ、脇役ならではのユーモアが霧散していく気がします。南国後、グンマは負傷して横たわる高松の看護とか思いもよらなくて、シンタローの仕事の邪魔とかしていそうですが、キンちゃんは何故か機敏に高松に寄り添い、体を拭く手伝いとかしていそうな気がするのはなんでなんでしょう。
グンマは24年間心のどこかで高松を「使用人の一人」と見下げていて、高松も「あの男の子供に過ぎない」という気持ちをグンマにチラチラ見せていたのかもしれません。好きとか嫌いとかいうレベルの話じゃなくて、そういう余所余所しさが「青の一族の男」と「その他の生き物」の正しい関係です。サビが高松にそうですから。キンちゃんとルーザー様は高松と「(青の一族として)正しい関係」にないので、マジックに排斥されたり、使役されたりするのかも。(キンちゃん、ルーザー様、高松が一族的に正しい関係なら、高松一人に仕事が集中しているはずだが、不思議と仲よし。)
高松は、早い段階で嬰児交換がばれるのではと思っていたんじゃないかと思います。ほんの一時、サビに同調してマジックに意地悪をしたかっただけなのではと思ってみました。「その子はあんたの子じゃないんです」と言って、マジックが青くなるのを見たかっただけなのではないかなと。ルーザー様の血を引く男の子なら、何万の兵からでも見つけ出す自信があった高松ならではの、タチの悪い、自己破滅的な意地悪だったのかなと。 |
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