荷風について考えていました。よく読む漱石と谷崎と、荷風を比較したりしています。荷風と漱石は教員経験があり、それぞれフランス文学、イギリス文学で教壇に立った事があります。漱石が大学を辞めて小説家になった事は有名ですが、荷風も「本業が小説家」という意識は薄かったのではと思います。谷崎は若い頃から書いてお金にして生活していたので荷風、漱石と異なります。荷風、漱石には「余技」的な良さが後期の作品にもありますが、谷崎は常にカツカツしている雰囲気です。
荷風はどこか真面目なので、フランスで起きたドレフュス事件が頭にあって、社会と戦えない自分を卑下していたのでしょうか。荷風なりに日本の社会を糾弾する意味合いで文章を書いていたと言います。生き様によっては社会の最前線で生きられただろう荷風は、あえて身を落として社会と自分なりに戦っていたそうです。
落魄趣味が荷風の特徴の一つですが、文壇で常に注目され、印税も多額、文化勲章をもらう様な男が何を言うという卑下ぶりが文章にあります。荷風の家系や財産、学識を思うと落魄は「趣味」又は「性格」なのでしょう。
ここまでが前段です。
谷崎のエロは売れない&評価されないと本人が困るエロです。「夢の浮橋」は本人が思ったほど売れなくて谷崎が怒ってましたが、読んでみると、この小説が大ヒットしたら日本は終わりだと思わなくもありません。父の若い後妻と義理の息子の関係というと、源氏物語から続く永遠のテーマですが、谷崎がコッテリ書くと怖いです。
(劇中にじゅんさいのお吸い物が出てくるんだが、じゅんさいが出てくる小説というと「夢の浮橋」しか知らない。そもそもメジャーな食い物じゃないけど、高松はいつどこで口にしたんだ。マジックに連れられてルーザー様と一緒に料亭にでも行ったか。「ルーザー様と初めて食事をご一緒させて頂いた時の品」なら納得。)
この頃の谷崎は「玄人でもなく自分の妻でもない女性、つまり他人の奥さんと自分がどうこう」という話ばかり書いて怖いです。初期は女性に誘惑されるかわいそうな自分を書き、中期は友人の妻に熱心になり、後期は妻の妹や息子の嫁に萌えるという小説を多く書いているので、文豪・谷崎でなかったらアウトだろうと思う事しきりです。ゾッとする様なエロでも、売れる&評価される小説にまで昇華出来るたのが谷崎だったのでしょう。文章家として一流なのは間違いないですし。
漱石も小説でエロに触れない訳でもないです。数えればいくつかあります。ですが漱石は代助が言う様に、必然性を感じない、がむしゃらなエロは好んでいない様です。それからの代助の様に、漱石にとって恋とは気が狂う様な孤独を伴うものなのかもしれません。
最後に荷風についてです。
荷風のエロは必然性に満ちていると思います。小説に出てくる女性がほとんど玄人なので仕方ないですが、荷風自身がエロに気持ちが傾いているというより、「(ゾラの様に社会と戦えなくて)自分がくだらないから」、くだらない事に思いを馳せているという彼のスタイルじゃないだろうかと思います。代表作の「腕くらべ」を読むとそう思います。当局から発禁扱いされた部分も含めて、必然性のある濡れ場が書かれたと思います。
自分も書くなら荷風の如き文章が書きたいと思いました。折角無駄のない体と性格をしていそうなキンちゃんですから、高松でも駄弁、詭弁、回り道は不要かと思います。(最近、南国の高グンは高松のデフォではなく、高松の後ろめたさのカモフラージュだった気がしなくなってきた。高松でもキンちゃんを煙に巻く事は難しそう。キンちゃんのストレートな性格プラス、キンちゃんには素直な自分を見せてしまうくらい高松がキンちゃん大好きだから。) |
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