■たまには真面目な話を書きます。
漱石の「こころ」で、私が生前の先生と散歩をしていた時、すれ違ったある新婚夫婦に対し、私は先生に「仲がよさそうな夫婦ですね」と云い冷やかします。先生は「貴方は寂しいから幸せそうな人を冷やかす」「若い頃は誰でも寂しい。寂しいから異性と抱き合う前の順序として、貴方は同性の私の所に来た」と言います。
先生の言葉は当たっていまして、宙ぶらりんの学生であった私は無意識の寂しさに駆られて先生を慕い、先生の死後、先生の妻だった静と結婚して子供をもうけます。先生と静は仲のいい夫婦であったけど、夫婦生活の方はなかったらしい描写があります。
(静が先生に「私に悪い所があれば云ってほしい」と言い、先生が「悪いのは自分」と言い返す場面がある。まさかとは思うけど、どうしてもそういう気になれない先生は、若い私を自分が自殺した後、静に新しい夫として与える気だったらしい。先生は静と夫婦になりたくて結婚したんじゃなくて、誰よりも愛していたKが普通の男性の様に静に恋をしたのが許せず、自分が静の夫になる事でKの結婚を阻止しただけの事なので、静と「夫婦」になる気は、Kの死後なら尚の事なかったらしい。
静は私と再婚できてよかった。先生の生存中も、先生の前で静と私が漱石の小説の水準で言うとかなりいちゃついている。静は先生との「生活」について早くから私に打ち明けている。・・・にしても漱石の書く青年達は周囲の女性に対し、「結婚しないのか」「子供は作らないのか」とズケズケ聞くなあ。門の宗助も大儀そうなお米に「お前子供でも出来たのか」とサラッと聞いている。本当にアイラブユーを「月が綺麗ですね」と訳した男なのか。)
■真面目でもない話を一つ。
高松はこころの先生と似てなくもないなと思うので、母もおらず、生まれも特異なグンマとキンちゃんが寂しくない様に、彼等を抱きしめようとすると思います。高松の自主的な愛情に南国後のグンマは「高松は自分が寂しいだけじゃない」と愛想を尽かすだろうけれど、キンちゃんはどう出るのだろうなと。
高松のキン・グンへの思いは恐らく先生と同じで、私が先生の死後、静と結婚して幸せな家庭を築いた様に、キン・グンに対しても、「いつか私との時間など無かったかのように、貴方達には本当の家族と幸せになって欲しい」と思っていそうです。ルーザー様の系譜に連なる子供達へ、高松からの精一杯の愛情として。
グンマは彼が思う「本当の家族(って何本当、コタとマジック?)」と幸せになってくれていいと思います。キンちゃんは、もし出来るのなら、別れてもはっきりと出会いからの日々が思い出せる程、鎌倉の海で出会った先生と私の様に、高松を愛してくれないでしょうか。(高松の罪には、キンちゃんのこれからの幸せが一番の慰藉だけど、キンちゃんは高松が落ち込んでいても幸せを感じ得るのだろうか。グンマは大丈夫そう。)
■昔中学の時に読書感想文を書いて賞をもらった「それから」が姦通小説だと言われると不思議な感じがします。それからの最後、代助が父と兄から縁を切られるのは代助が姦通に問われたからです。平岡が代助の父と兄に、自分の妻と代助の事を訴えたのでしょう。
姦通というまがまがしさに13歳だった自分は何を思ったかと言うと何も考えていなかったんだろうと思います。芸能人のニュース等は今でもろくに見ない人間なので、漱石が描く「代助と三千代」の話として読んでいたのだと思います。姦通の現場そのものは書いていませんがこんな描写があります。
■三千代も代助も意図的に結婚前の自分達の話をする ■三千代は代助が贈った指輪をことのほか大事にする ■三千代は代助と結婚するはずだった事をほのめかす ■三千代はやたらに一人暮らしの代助の家に来る ■三千代がいるから代助は未婚のまま
三千代の死んだ兄の事を代助が懐かしむ所が一つの山場です。代助は「三千代と自分が結婚する」という生々しさに耐えられず、親友だった平岡と三千代を説得する様にして結婚させたのだと思います。結婚を周旋する事で、労せずして「三千代と自分と平岡は特別な関係である」と思えたのでしょう。もし三千代と代助が順調に結婚していたら、代助は三千代をこんなにも求めなかったでしょう。
三千代は終盤病に倒れ、平岡に「貴方にすまない事をした」と言います。平岡は仕事が上手くいかなかったり、昔の様な純粋さはなくなったかもしれませんが、何もしない代助と違い、三千代には常に夫として接してきました。代助が寂しさに任せて昔話をしている間にも、平岡は就職活動をしていました。
平岡の苦労を知っているから出た三千代の言葉ですが、気持ちとしてすまなかったのか、本当に指弾されるべき姦通があったのかは、小説には書いていません。ですが、どうであれ三千代にも平岡に対する「やましさ」はあったのだろうと思います。 |
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