新国立劇場でピグマリオンを見て。幸せをつかむイライザより、置いて行かれる教授が気になりました。イライザが本当に愛していたのは教授だったとしても、教授が彼女から捨てられた事に変わりないです。教授が英国のリゾート地・ブライトンでイライザに宝飾品を買ってあげていた事を思うと、教授は彼なりに、ずっとイライザへ好意を示していたのでしょう。
教授がイライザに彼女が望む様な形での愛情が示せなかったのは、今までの自分に固執していたからだとすれば。仮にイライザが教授を愛していた場合、イライザは彼のどこがよかったのでしょう。イライザは愛してもいない男に優しくされなかったのなら、感情を爆発させなくてもよかったのでは。教授がイライザを物の様に扱った事が劇中で非難されていましたが、イライザも、心のどこかでは教授を「単なるコーチ」「こちらから温めてやる程の男じゃない」と割り切っていた気がします。教授や大佐に従っていると、周囲の目がみるみる違っていったんですから。
土日に原稿を描いていたんですが。以下は妄想です。
■医者兼科学者兼技師として妻として母として多忙過ぎる高松が、どうやって仕事と家事を回していたのか考えていました。そんなルーザー様存命パラレルを描いていたら、そこに落ち着いてしまいました。高松が本当に愛したかった子供はキンちゃんなんだろうなと思いました。ましてルーザー様がいないなんてないでしょう。・・・高松の職掌が公式でも混乱気味なのはもう諦めています。何でも屋でしょう。設定が無駄にハイスペック過ぎて作者が描写出来ないらしく、公式で特に仕事の描写がない三科学者。
よく高松の背景にいる、股んGOくん達が、ハリポタの屋敷しもべ妖精の様に、ルーザー様の家や研究所、医務室に多数いるのかもしれません。植物に頭脳はないと思いますが、作ったのが高松だとすると「ルーザー様の言う事を聞く」「キンタロー坊っちゃんを助ける」という不文律を理解した上で、颯爽と頭の葉っぱを振りながら働いていそうです。
高松が「自分の意思で動く植物」を作ったのなら、理科の教科書が一から書き換えられる様な騒ぎです。そんな名誉よりも、「私がいない時でもキンタロー様に目玉焼きを焼いて差し上げる」事を目指して、股んGOくんは作られたのでしょう。大根達の方がルーザー様より役に立ちそうだと思いましたが、大根達はルーザー様を一番の主人だと思って動くので、ルーザー様は普段通りでいいと思います。
■ピグマリオンを見たせでもないですが、「何気ないラブストーリー」と言えば英国の様な気がしないでもないです。日本の恋愛ものは泣かないと話が進まない印象があるし、米国のはインパクト重視の様な気がします。フランス等南欧は時として赤裸々。ドイツは恋愛ものなのか格闘技なのか分からなくなる程ハードでした。英国は分り易い日常生活を扱ったお話が多い気がします。 ■英国ものにはヒギンズ教授とピカリング大佐、またはホームズとワトソンの様な親友同士がよくある気がします。自然主義の小説なら、女性を奪い合って血みどろの愛憎劇が始まる所ですが、紳士的な友情を貫きそうな親友同士の多さがこの国の特徴でしょうか。
■オースティンの恋愛小説は全てが「結婚」で終ります。高慢と偏見でも求婚で話がしめられますが、「求愛を一度ヒロインが断り、再度男性がアタックする」という、誠実極まりない展開が多いです。「説得」も一度求愛した女性が家族の反対にあったので、男性が再度プロポーズするまでの話です。 ■オースティンに激しい心理・身体描写はありませんが、読んでいて、いいなあと思います。オースティン自身は意外と皮肉屋ので強い感じの女性ですが、描かれている世界は、「どこででも起きそうな男女の話」です。「どこででも起きそう」でも、現代日本ではありえないなと思いますが。
(何をどうひっくり返すと青の一族が英国籍という設定にたどり着くのだろう。金髪碧眼の家系なら北欧じゃないだろうかと思うけど。成熟されたラブコメ、ラブストーリーの宝庫なイギリス文学が自分は好きだけど、多分南国&PAPUWAには、かすらないんだろうなあ。)
■英国籍らしいルーザー様が、平凡な恋の悩みに身を焦がしてもいいのではと思いました。ルーザー様の仕事のサポートと、キンタロー坊ちゃまのお世話で頭が一杯の高松に、「僕をかまってくれない」といじけるルーザー様を描いたら楽しくなりました。いじけたままではいけないので、高松と仲直りすると思います。高松とすると「何か手落ちがあったのだろうか」と首をかしげる所ですが、でかい子供がいると思えば納得できるかも。 |
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