■ピグマリオンのヒギンズ教授が、「人が思う事を何でも口にし出したら大変だ」とか言っていました。教授の母がお茶会をしている最中の事で、「和む時の話題ってなんでもいいのよ」という流れだったと思います。空気を読まない教授が子供なんですが、自分もたまにそう思います。子供の頃は本当に思ったまま口に出したものですが、今は流石に不自然でも控える様にしています。劇中で教授は「思いやりも考えもない」「子供」と何度も言われていますが、立派な淑女になったイライザよりも、どうにもしようのない教授の方に興味を持ってしまうのは、自分が教授に近い人間だからだと思います。
■冷静に考えると、柴田亜美作品が「硬派で壮大なファンタジー世界」として完成する可能性はあったと思います。美少女が出ないだけで硬派と考えていた自分は浅かったですが、原作者が献身的な大勢のアシスタントさんと、多数の発表の場に恵まれていた事は疑いないと思います。「私が思うかっこいいヒーローファンタジー」の完成へ邁進してくれていれば、今も好評を博していたのでしょう。
ジャンに対しても、話や性格をこっちが納得出来るように組み立ててあったなら感情移入のしようもあったと思いますが、サビマンセーとシンタローの陰を薄くする以外の登場による効果を感じません。高松が死ぬ程憎んでいる相手なので、死んでいたままでいた方が穏やかだったろうなと思います。または幼児の姿で出てくるとか。高松は子供に手を上げないと思います。
何故、キャラの立ち位置や能力、性格への描写をやめて、マンセーの嵐になったのか理由は定かではありませんが、その方が動かしやすかったんだろうなと思います。コタ、サビの女王様態度はキャラとして見れば気になりませんが、男同士で、しかもいいおっさんや、ごつめのお兄さんも混じって女王様と奴隷ごっこを繰り広げている様子はネタだと思っています。
コタは島から帰って、髪を切って働き出した後の方が好きです。危険な青の一族の子供を、新生児からでも好青年に育て上げてくれる医者がいるので、原作者の興味の対象から外れた後なら、安心してコタの姿を想像する事が出来ます。コタはキンタロー兄ちゃんに物理とか教わっているんでしょうが、ちょっとした事で「高松に聞いてくる」と言い出すだろうお兄ちゃんなので、「もう高松先生に僕が直に教わった方がいいんじゃ」と思うコタとか。
■女王様キャラと奴隷の関係って、実は作品にするのが難しいと思います。谷崎の「痴人の愛」は全て譲治の独白として描かれている小説ですし、「春琴抄」も春琴に仕える佐助の姿をピックアップしている割に、肝心な2人の本当の関係(自称師弟だか実は男女関係)が多く語られる事はありません。
他人からすれば「好きな人に叩かれる」「浮気される」「お金を貢がされる」「無視される」「命令される」等、目を塞ぎたくなるような日々を作品にするには、内面の描写も、人物達の周辺の描写も、かなり説得力を持って書かなければいけません。マゾヒズム、フェチシズムは谷崎の十八番ですが、谷崎の性的嗜好を論議する以前に、谷崎の文章力の高さに注目せざるを得ません。康成も美文で有名ですが、康成独自の色気と康成の潔癖な筆使いは見事に融和しています。
普通の作品ではなく、変わった性的嗜好を露わにしたいのなら、それなりに技巧がいるのだと谷崎、康成、荷風の作品から感じます。その手の求められる技量が南国&PAPUWAの原作者にあったのか、また、マゾヒズムの描写意義について客観的に把握していたのかは謎です。
■高松も結構なマゾヒストでサドな変態だと思いますが、変態たる対価は長年払ってきたと思います。変態は一日にしてならず、ガンマ団と言うかキンちゃんやグンマ、昔はルーザー様にお仕えするために彼が重ねた学術的、精神的努力は相当だったと思います。
高松は技量的にキンちゃんやコタの先生になれる男であるし、幹部としても有能であればこそ、気ままに変態でいられるのだと思います。なので、「若くて綺麗な40代」としてサビにもう自分を重ねられなくなったからかどうかは知りませんが、原作者の目が今更高松に向いたとしたら、自分は無視します。 |
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