madeingermany

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...... 2013年11月30日 の日記 ......
■ 世話   [ NO. 2013113001-1 ]
荷風の随筆集を5冊読み終わりました。小説その他も沢山書いているので他にも著作は多いのですが、随筆となるとまた違う興味がわきました。谷崎や漱石は時期や体調によって思想や感慨が少しずつ変わりますが、荷風はぶれない気がします。もっとこなれた性格に変化していたなら、違った晩年になっていたかもしれません。

荷風の人生は荷風自身が選んだものなのだなと5冊読んで思いました。普通はお金がないとか、係累の影響等でもっと選択肢のない生活になろうかと思いますが、荷風は変わり者のお金持ちでもありました。

当時普段から洋装して、朝は舶来のショコラを飲み、英語フランス語にたくみな人って、どれくらいいたんでしょう。荷風を貫いたのは「今の日本は全て嫌だ。でも嫌な日本社会に闘いを挑む事は自分には到底できない。なので斜に構えて生きられるだけ生きよう」という思いだったと思います。

創作って、あくどい人も欲深な人も、好色な人も出てきますが、書いている方に自覚があって裏表書きこんでいる場合につき、読んでいていいものになるのかもしれません。東野圭吾にはまった時、「なんだこの極悪人達は」と思いましたが、読んで楽しめる所まで悪行の数々を作り上げて昇華しているんだなと納得しました。

(・・・・南国&PAPUWAは、原作者の無関心・放置・掘り下げ無しっぽい心戦組や、ルーザー様&キンタロー様&高松、コタあたりが意外としっかりしていて、筆が進むらしい顔ぶれは明後日な展開になるってなんだったんだろう。多分雑誌の方から「コタローのお母さんの話を出しましょう」「アスを出して秘石の秘密を掘り下げましょう」とか言われただろうに、笑えない人工授精とアスいじめにとどまった実績って謎。)



高松と言うと子供の世話をよくしています。以下の事を思いました。

■長い歴史の中で、偉い人が自ら家事・育児を行う事はまずなかった。イギリス王室でもここ最近の事。「夫と子供のご飯を作ったり洗濯したする優しいお母さん」像というのは、とんでもなく現代的な話。昔の小説を読むと、漱石くらいの階級の家庭なら必ず女中、下男がいる。子供や夫の面倒は、直接妻が見ない事もあろうかと思うけど、「愛が無い」とは言われない。

■日本でも偉い人達については、歴史の大部分で「生母」「正妻」「乳母」「側室」等、女性の立場は家族に準じる女性達も含めて、立場が入り組んでいて、1人の女性が「出産」「育児」「後見」「夫婦生活」「交際」等を全てこなす事はなかった。現代の一般家庭においてそんな事があったら大変だけど。古典的な政治抗争が激しかった時代なら、1人の女性、つまり特定の閨閥と世継ぎが親しくなり過ぎるのは問題が生じやすいので、あり得たのだと思う。

■無理矢理だけど、青の一族が男性だけで育児を行うらしいのは、閨閥を一切作らない意味では有効かもしれない。閨閥によって得られるものもあるので実に短絡的な話。(でもやっぱりお母さん欲しくないか。パプワにスクランブル!の女王みたいなキャラが出たら大混乱だけど)



■高松が自分を引き上げて下さったルーザー様の子供を、ルーザー様からの信頼の証の如く、育てても特に問題はないと思う。もしルーザー様に奥方がいたとしても、彼女は貴い身分故にキンちゃんを自分の手で育てないと思う。ルーザー様の補佐、ひいてはマジックへの献身という意味で高松以上の適任者はいなかっただろう。

でも高松の場合、客観的な立場は古典的な「家臣」でありながら、「1人で何でもこなす」「家来同然だけどルーザー×高松」「面倒くさがりな部分もあるせいかお互い浮気しなそう」「キンタロー坊ちゃまも高松大好き」という特徴のために、詰まる所、現代的なキャリアウーマンと言うか、普通のフルタイムで働くお母さんに見える。キンタロー坊ちゃまが高松へお父様に対して挨拶する様に、「おはようございます」とか言ったら、高松はいちいち「私にはおはようで結構です」と注意しそう。

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