■南国&PAPUWAを理解する上で回避出来ないのが「原作者のキャラへの自己投影」ですが。他の漫画よりはるかに濃く頻回に自己投影されているので、透けて見えるどころかマル出しのモロ出しです。
(おっさん世代キャラをたかが年齢故にバカにし続けた原作者が、自身が中高年になった時どう出るのだろうと思っていたけど、絶賛現実逃避中らしい。若いなら若い時の良さが、年を召せば召した時の良さがあるとは思わないのだろうか。南国は「若さ故に」駆け抜けた作品だったと思うので無理かなあ。「若い頃の過ち」という事でアレコレを鎮静させて、以降の作品には引きずらない・・・なんて事はなかった。
ちなみに自分は10代に戻りたいとかは全く思わない。PAPUWAでキンちゃんでも若さをアピールしているのだが、彼は「生来多趣味で(自分と)恋もするし、頭も使うから老けるのが人より遅い高松」を間近で見ているので、そのうち彼も「年齢」にはこだわらなくなるんじゃないだろうかと思う。
キンちゃんは「余裕のある年上」との恋という理想的な姿だけど、高松なのでキンちゃんが若い子に目が行っても、「おやおや」で済ませそう。キンちゃんは余人に始終「お気遣い」をする分自分が癒されにくいから、結局「お気遣い」してくれる高松の下に戻って来そうだし。高松にわざとわがまま言うキンちゃん想像すると可愛い。)
■PAPUWAでコタの心身の状態について、多分医者の高松の提案に同意しているキンちゃんのコメントに、理解出来ない突っ込みをいれるリキッドを思うに、「自己投影」しているキャラが劇中で非難するキャラの方が理性的である事にも慣れました。
(CLAMPのホリックが好き。CLAMPも女性キャラが無駄に不幸だったり、男性キャラの扱いが甘かったり、「性別・年齢不詳」のキャラが多かったりするけど、あれはもう手練れのする事なので気にならない。極端すぎて突っ込みたくなる事もあるけど、「作品として面白い」事が多いのでいいと思う。)
■自分が思う自己投影の王様は漱石です。坊ちゃんが松山に赴任した時の事を題材にした事は有名ですが、草枕、猫から明暗に至るまで、漱石や鏡子さん、門人達の姿がチラチラ見えます。明暗は女性である延子がメインに近い扱いで、漱石が思う「救い」の過程を辿っていました。
漱石の死で明暗は未完ですが、漱石の死後も書き溜められていた分が掲載されましたし、漱石は吐血しても手術しても、「仕事」である創作は止めませんでした。壮絶で、自分がおよそ初めて会った「作家」です。こころの私と先生、行人のHさんと一郎、明暗の延子と叔父とか、「血のつながりはないけれど、家族よりも自分を理解して側にいてくれる関係」が好きです。高松とキンちゃんも無意識にそんな感じかなと思っています。
延子は。
■自分の意思で津田と結婚して幸せになろうとするも、津田には好きな女性が既にいて、津田は彼女に振られていた。 ■津田はコネで入った会社で不真面目でそのうち首になりそう。上司夫婦と親しいのが津田の強みだが最近雲行きが怪しい。 ■津田の家族は、津田に贅沢をさせるのは延子であると思い、延子に冷たい。津田も延子も「贅沢」ではあるが、延子のせいとは言い切れない。 ■延子の家族は叔母一家があるくらいで、延子の辛い結婚生活に同情しているのは叔父一人。 ■病後の津田は遠方の温泉地で、上司の妻の導きにより昔の恋人と逢引中。誰も味方がいない延子は津田の妹に頭を下げて、和解を求めるが延子を嫌って拒む義妹。
津田、延子、義妹、他の親族が入り混じる心理描写は読んでいて恐ろしい程です。延子の感情を克明に漱石が書けるのは「自己投影」の賜物でしょうが、流石金之助さんです。 |
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