■グンマが高松に振られたと気が付いたのはいつだったのでしょう。精神的には常にグンマを放置して、故ルーザー様と何故か黒髪で生まれた「キンタロー」に浮気しっぱなしの高松なので、南国の高グンはフェイクっぽいです。高松の浮気がグンマにいつ全てばれたかは不明ですが、自分の出生や立場について高松が嘘をついている事に、グンマは小さい頃から気がついていたと思います。
「高松は僕のために何か隠している」のではなく、全然違う子のために心を砕いただけという事を、グンマが知った時の衝撃はグンマにしか分かりません。嘘をつかれても「僕には高松しかいないし、高松にも僕しかいない」と思って耐えていだろうに。高松は嫌悪される事に慣れ過ぎて、向けられた愛に事に気が付けない人ですが。
(・・・ジャンと高松は一触即発な関係だけど、高松とグンマもよく何も起きないと不思議になる。原作者は嬰児すり替えについて「こんな重要な過去を知っていたサビはすごい」というアピールのつもりだったかもしれないけど、自作自演の犯罪なだけでは。高松は確信犯でも、サビに罪や恥を自覚する誠意はない。)
■一年と少し、ルーザー様と高松、キンちゃんについて考えていました。ルーザー様は真面目な方なのだなと最近思います。息子のキンちゃんが生真面目でも、親のルーザー様は自分勝手な人なのかなと思っていましたが、どうもそうではない気がします。頭の良さはルーザー様、高松、キンちゃんとも同格ですが、ルーザー様が一番「守りたい」気持ちを強く持っていたのかなと思います。
高松は好き嫌いが激しいので時々不真面目ですし、キンちゃんはまだまだ「誰かを守る」までには成長していないと思います。・・・そんなキンちゃんも、高松にルーザー様が付けたと思しき傷があったら(※ルーザー様存命パラレル)、相手がお父様でも抗議しそう。仕方ないので、息子を納得させる意味で、「パパもママが好き」アピールに励むルーザー様(・・?)。
■坊ちゃんを読み終えました。山嵐と組んで赤シャツ、野だを殴りつける場面がクライマックスだと思うと、坊ちゃんの限界を感じます。自分が辞表を出しては学校が困るとか、結局坊ちゃんとうらなり君の事件は何の関係もないという事とか、初期の漱石らしい書きっぱなしなのかもしれません。
坊ちゃんと行人の一郎は似ています。2人とも癇癪持ちで、将棋を指していて腹を立てて相手に駒を投げつけた事があります。嘘や不正が大嫌いというのは漱石らしい部分ですが、自分の苛立ちで迷惑をこうむる人がいる事をあまり考えない時があるのも坊ちゃんと一郎は同じです。
坊ちゃんは四国から清のいる東京へ帰り、一郎は東京の自宅を追い出されるようにしてHさんと旅行に出かけました。2人とも、常に「居たたまれなさ」に追いかけられています。2人とも教員で、恐らく学問の出来は素晴らしくいいのでしょう。漱石の小説は、人生の悩みの解決策は提示しませんが、「この人も悩んでいるな」と思わせてくれます。
■もし、いい小説を読む事が文章修業なら。康成の雪国を読んで自分の力に出来たらいいなと思います。今雪国を読んでいまして、島村が電車を降りました。
昔、小説の良さは内容の奇抜さや道徳性よりも、書きぶりにあるのかなと漱石の彼岸過迄を読んで思いましたが、雪国も良さは駒子の苦しい立場や島村のいい加減さにあるのではなくて、雪国が総体的に味わえる一つの世界である事なんだろうなと思います。文章や言葉の一つ一つに無駄がありません。
世界の康成だから自分も無意識に迎合しているのかもしれませんが、島村の駒子を見る目が康成過ぎてとてもいいです。自分の書くキン高、ルザ高もかくあらんと思います。
(高松が減らず口の多い男である上に、照れ隠しなのか一方的に相手に尽くそうとするから、彼を好きになった人はおのずと観察者の立場に置かれざるを得ない。彼を観察していると段々、こんな傲慢な男でも意外と自分の思う様に出来る事に気が付いて、ルーザー様もキンちゃんも楽しそう。
・・・康成の駒子の黒髪や仕草、肌の描写、いつか高松に生かしたいと思うけど、性別が違った。年齢と立場は丁度いい。康成に失礼でないなら、お借りしたいくらいいい書きぶりだ。金髪碧眼をゆるゆると描写する日本語の文章は少ないと思うけど、黒髪を描く文章はいいのが沢山ある。) |
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