ルーザー様は何故高松に、「僕は兄さんとこれ以上やっていけないから死ぬしかない。お前は生まれてくる僕の息子を守ってやってくれ」と言わなかったのでしょう。高松と生まれてくる息子の事なんでからっきし考えず、彼がサービス命で寂しく一人死んでいったからだとは、ルザ高なので今は無しだとして。
(キンちゃんだけマジックがグンマの従者にでもして、高松一人嘆き悲しむオチの方が現実的か。)
自分の気持ちなど細かく言わなくとも、高松は分かってくれると思ったのか。または自分の自死を説明すればどうしても「マジックのせい」になるので、今後高松と息子がマジックを恨む様では困るからなのか。いずれにしろ自分の命と、高松とキンちゃんの未来を引き換えにしたと思うのですがどうでしょう。高松は何をどう説明されても、今までガンマ団に貢献してきたルーザー様を切り捨てたマジックを恨むでしょうが。
高松があの性格でグンマがグンマで、今までやってこれたのは、それがルーザー様とマジックの「約束」だったからと思ってみます。高松は生かされているのだから、ルーザー様からの愛情をもっと信じてよかったと思います。(いやだからルーザー様がサビしか見ていないとかは・・・)
■漱石の明暗を読んでいます。長い小説ですが、扱っているのはほんの数日の事です。津田と清子の交際期間を入れても数年の事です。
流石漱石と言うか、なれ初め〜見合い〜結婚〜夫婦生活〜子供の出生、の書きぶりが平坦過ぎて見落としそうです。漱石の小説でややこしいのは、現代なら「交際中」に起きそうな事が「結婚後」に起きる所です。当時だから仕方ないのですが、「この夫婦仲悪いなあ・・・」と読んでいると、次の章で「娘の出生の場面」とか出て来るので、仲悪かろうとしっくりしていなかろうと、「夫婦」は「夫婦」なのかなと思います。・・・まさか漱石の作品群で訴えられている事を「犬も食わない」と思う事は出来ないので、何だかなあとも思いました。
お延が見合い中の継子を見て、「処女の貴女と処女じゃない私」について延々考えている場面があります。字面だけ見ると不謹慎の様ですが、漱石作品で真面目に繰り返されるテーマでもあります。つまり、お延と津田は冷戦状態の様に書かれるけれど、「夫婦」には違いないです。「自分の妻でありながら他人の男から深く愛され、かつ処女である女性」というと、こころの静ですが静自身は勿論こんな立場に納得していません。
■漱石の前後三部作で、漱石の分身の様な人達の彷徨は収まっていると思うので、こころの後の道草、明暗は全く三四郎〜こころまでの作品の系列とは違うものとして読んでいいのではと思います。
こころが何故6作続いた作品群の最終章になり得るかと言うと、私が幸せな結婚をしているからです。こころは全編回想ですが、Kの事、静の事、先生の事を語る私はとても落ち着いています。三四郎から引き継いだ「生きていられない程の居たたまれなさ」が解決したからだと思っています。
■私は先生の妻であり、Kの恋の相手だった静と結婚し、子供を設けたと思われます。心から慕った先生の妻と先生の死後結婚し、何が良かったのかというと上手く言えませんが、恐らく映画化された時に静が言っていた様に、先生は静と「夫婦」ではなかったのではと思えます。
「結婚すれば女は悪くなる」というのが猫から続く漱石の主張です。ならば未婚のままいればいいのかというとそうでもないのが面倒な所ですが、静は「先生と結婚すれど妻でない」という状態だったと考えられます。先生に「私に悪い所があれば言って下さい」と訴えているので。先生も子供を求めていません。
■三四郎では野々宮も三四郎も佐々木も広田も、美禰子の「内面」について顧みる事はありませんでした。美禰子が頼りにしたのは、野々宮達とは全く違う男性でした。こころでも、静の内面の苦しさを顧みる男はいません。私も先生とKの話を静に語る事はないはずです。静はK、先生、私から、単に身近な女性というだけでたらい回しにされます。
静がまるで処女の様な明るさを私に見せるのは、本当に処女だからだったかもしれません。「結婚して悪くなった女」をもらっても私は嬉しくないでしょうから、静はそういう事かなと。(三千代やお米の場合は彼女達の「処女だった頃」に代助、宗助がこだわっているのだと思う。なので、結局既婚者である彼女達とはしっくりこない。)
・・・明暗が漱石作品で異色なのは、女性目線で語られるからです。行人の直、重を思い出しますが、まるで坊ちゃんの様に、他人の中で一人幸せを思い求める延にいたたまれません。 |
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