夏に出そうと思ってキン高、ルザ高のネームを描いていました。何やかやでキン高にルーザー様がいて、ルザ高もパラレルなら愛息キンちゃんがいるので、節操がないです。でも南国後、キンちゃんに「天国のお父様に申し訳が立ちませんから」と言って指導に励む高松を、キンちゃんがしっかり受け止めたろうなというのは、妄想抜きでもありだと思っています。
自分が群馬生まれ・群馬在住なのを、南国の都道府県ネタに生かせないかなと思ったのですが。
■実はグンマは群馬と縁が薄い。 ■群馬県に縁のある女性を母に持つ事が想定されるのはキンちゃん。キンちゃんは英国籍のお父様と、群馬県女性とのハーフという仮定が成り立つ。育てたのは香川県出身の高松だけど。高松はキンちゃんのママが群馬県女性である事を知っていて、カモフラージュでグンマとそのまんま名前の候補にしたのでは。(秋田キャラがいれば稲庭・水沢・讃岐の三大うどん県がそろうんだが)
■群馬県に何らかの感慨を持つべきキャラはキンちゃんという事になる。だがそこまで迂遠な妄想はいくら自分でもしにくい。グンマを無視する事にもなってしまう。 ■普通に、高山植物・温泉旅館・湯治場の診療所での仕事・若手に人気のスノボゲレンデをキン高が楽しめば、群馬にこだわる必要がなくなる。脳内イメージが万座、草津、水上等なだけで。
■南国後、高松の療養を兼ねて、温泉場で研修をこなしてきたキンちゃんをシンタローが冷やかした場合。「グンマには何もない」とキンちゃんが照れ隠しに啖呵を切って、側にいたグンマが泣き出す絵が浮かんだ。
高松にすればグンマにとって「誰が育てたか」「どんな友達がいるか」「何か仕事が出来るか」という事より、「マジックの息子」である事の方が数倍重要だと思ったでしょうが。グンマから故郷も思い出も両親も友達も仕事も奪った事実は消えません。
■漱石の行人を読んでいます。行人とはいくつか意味のある言葉ですが、今回は草枕同様「旅する」という意味かなと思います。一郎は旅をするというより彷徨っているという感じですが。以下は行人雑感です。
■明暗で小林が「僕にはレディと芸者の区別がつかない」と言っている。着物の着方や髪型、振る舞いで堅気の婦人と玄人の区別がつかないはずないのだが、行人を読んでいると確かに区別されていない。激しく区別されているのは、処女か非処女かという一点くらいだ。(※露骨な言い方で嫌なのだけど、漱石が作中で女性の結婚する事に病的な程否定的なのは帰する所そこらしい。)
二郎を異性として誘惑するかの如き直の振る舞いは、まさしく「婦人と芸者」の区別を決してしない漱石作品らしい。草枕の那美さんとか。でも二郎はきっと兄嫁だから直と親しめるのであって、一対一で直とで接すれば直を嫌いになりそう。「よく分からない女だ」と言って。
■女性嫌い・奥さんと不仲と見られがちな漱石は子沢山。漱石にとって女性って何だったんだろう。妻=生理的に必要で勝手に子供を生むよく分からないもの、妻じゃない女性=勝手に誘惑してくるから嫌い、無邪気な生娘は嫌いじゃない・・・。自惚れ、手前味噌と夫を指していう道草のお住は正しい。
道草を書いたのが鏡子さんだったなら納得だけど、皆を恐れさせた漱石が自分で書いたという点が漱石の偉人らしさだと思う。漱石の小説を読むと、漱石に自己顕示や虚栄心がゼロに近いまで乏しく、くそ真面目に書きたい事を日々つづっていたのがよく分かる。
(猫で「往来ですれ違う大半の女性に惚れる」という描写があるので、「生理的・社会的に女性は求めるが、精神的には近寄ってきて欲しくない」と言うことか?鏡子さんは自分との夫婦生活を暴露するかの如き漱石の作家活動によく我慢できたと思う。弟子達が無責任に夫の漱石を取り巻くのも、時には嫌になった事もあるだろう。)
■三沢のいう「あの女」は大阪の芸者らしい。三沢は「あの女」に会った晩に鯨飲して胃を壊したので、「あの女」と三沢は多分関係していない。なので三沢はそんなに親しくないけど自分が関わったと自認する「あの女」へ思いを自由に馳せるし、婚約者にも呑気な態度である。
(※三沢が「あの女」に金を渡す場面がある。普通考えれば、三沢が「あの女」と芸者として付き合って、金を渡さねばならないとなれば清潔感の無い場面になるはずなのだが、漱石なのでそうならない。それからの代助が財布にありったけの金を三千代に渡したり、坊ちゃんで清が坊ちゃんになけなしの金子を渡す場面がある。
明暗の津田の父が金を津田に与えない描写も合わせて考えると、「金を渡す」=「貴方が好き」という事らしい。身分や性差にはしつこくこだわる漱石だが、「金」のやり取りに「愛」を求める傾向がある。津田の金を使いたがるお延、金を津田にくれる吉川夫人、・・・金ありき。一生懸命ドテラを縫ったお延の仕事ぶり・愛しぶりは明暗では無価値。) |
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