■「マンガで分かる心療内科」を読んでいます。おじいさんが人気と聞きましたが、よく分かります。人生の荒波を越えたものだけに許される余裕をおじいさんから感じます。他にも、「その通りだ」と思わせる内容が多いです。
「幸せは目的ではなく結果」というくだりがあって、幸せになろうとすればする程空回りする感じは錯覚じゃなかったんだなと思いました。「多少の嘘は気にしない方が幸せ」というくだりも、よく分かります。正直がいいとよく言われますが、妻に真実を追求しすぎて不幸になっていく行人の一郎を思いました。
・・・高松も「こうであらねば(ルーザー様のお側にはいられない)」と思う部分が強かったのでしょう。勿論ある程度の「水準」をルーザー様は求めて来るでしょうが、高松なら頑張れば水準は越えられるわけで、もっと「求められた」事に気が付いてもよかったなと思います。南国高グンも、高松が「グンマ様は私といても幸せになれない」と思うからややこしくなるのでしょう。
高松と幸せになるには。常にクタクタになるくらいの仕事や研究をしょい込み、「全く私がいなきゃダメですね」と言わせるのがいいのでは。慰労と言う名の自然な触れ合いに、あの高松をそれとなく導く努力とか、どれ程高松の事が好きなら出来るんだろう、キンちゃんとルーザー様は。
■漱石を読んでいて、あまりに結婚についての話が多いので、オースティンを思い出しました。オースティンは全作ヒロインが恋愛をし、幸せな結婚に至るラブストーリーです。ヒロインのお相手はもれなく英国紳士です。彼等は金も地位も名誉も仕事もあり、自分がプロポーズした女性に誠意と努力を惜しみません。
(紳士には淑女が必要なのであって、お気遣いが出来ても野郎ばかりの場で紳士であるのは片手落ちな気がする。高松はナイスミドルで変質者まがいの白衣男でも、中身はエスコートが必要な淑女・・・でないなあ。ガバネス。雇用主のルーザー様の家で、未来の紳士たるキンちゃんにエスコートを仕込むのが生き甲斐っぽい。)
オースティンの小説に、身分の低い娘を自分の「仲人ごっこ」のオモチャにするエマがいます。エマの不真面目を諭し、見守り、最後は夫になる英国紳士そのもののナイトリー氏を思うと、女性目線の小説なんだなと思います。
■漱石の小説というと、悩むばかりで解決に至らないのがいつもですが。人生、大抵の悩みは解決しません。「グンマはいつ都会になるのか」「草津温泉はグンマ。滋賀の草津市にはないといつ知られるのか」「グンマはいつ長野・新潟くらいのメジャーな県になるのか」、多分来世紀まで解決しないと思います。
真剣な話、漱石がよく書く悩み。 「夫婦仲が良くない」「好きな人と結婚できない」「そもそも求婚してくれる人がいない」「子供が出来ない」「子供が多い」「苦手な友人に翻弄される」「義理の兄弟と上手くいかない」「両親とも上手くいかない」「金がない」「金があっても家族と親類全てには十分でない」「仕事が辛い」「皆が自分の事を分かってくれない」「病気がち」・・・なんて今でも解決方法は無いに等しいです。
■小説の中でくらいなら円満に幸せでいようよと、思わないのが漱石らしいと思います。「みんな悩んでいるんだから」と誤魔化さないのも漱石の偉人ぶりでしょう。鏡子さんは面倒くさそうですけど。
虞美人草で小野さんと小夜子が結婚したのが蛇足だと思うのですが、明暗のまどろっこしさの解決は虞美人草にあると思います。「自分に正直に生き(宗近)、理解してくれる妻を持ち(甲野)、周囲への義理も果たす(小野)」事です。
結婚しなきゃいけないから結婚する小野さんと小夜子もいい迷惑だと思いますし、小野さんが小夜子を「お荷物」と思わず大事にする描写があってもよかったと思います。「博士に何かならなくていい、結婚なんかしない 」と吐露した弧堂先生と小夜子のままでいて欲しかったです。 |
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