漱石の彼岸過迄を読んでます。前後三部作の一つですが、三四郎からさらに女性不信が進んでいるなと思いました。三四郎の広田先生達の様に女性忌避、独身主義の人もいますが、大体の登場人物には配偶者や女性の知人がいるので事は面倒です。
適当な事を言ってすみませんが、漱石の小説の男性って「女性の顔や体は大好きでも、一人の人間として向かい合うと途端に嫌になる」のじゃないかと思います。津田が延子と結婚したのも、美人でコネのある延子に好かれていい気になったからで、延子自身の性格や個性はどうでもよかったんじゃないかと思います。津田に「あたしを見て欲しい」と願う延子は報われないでしょう。
昔の小説なので、「若くて女性らしい美人」をひたすら男性陣が求めても別にいいと思います。でも行人では、「女性のスピリッツをつかみたい」とも言われます。直は一郎を愛していない訳でもなく、随分我慢して一郎に従っていると思いますが、一郎曰く、「従うとかの態度が嫌」らしいです。道草では「従わないのが嫌」とも言うので、もう何が何だか分かりません。
女性の登場人物をペットのイヌか人形の様にしか愛さないのに、「スピリッツをつかみたい」とも思う彼等は、いつまでも救われないと思います。三四郎は、優柔不断で弱い男達を振り切って別の男性と結婚した美禰子を責めて終わりますが、彼岸過迄、行人、こころと進むと、女性の抵抗や異見自体掻き消えていきます。こころでは私と先生、Kの秘密が静を飛び越えて保存されていきます。三人の男から自分の意思に関わらず、単なる道具としてたらい回しにされた静が何とも。
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■グンマの「解」について考えていたんですが。キン・グンへの高松の態度の違いは、例えばマジック四兄弟のそれぞれの違いみたいなもので、中学生でガンマ団総帥のマジックもいれば、永遠ニートのサビもいるという個体差。個性の違いに合わせて、高松もキン・グンのお世話をし、家庭教師として彼等の未来を一緒に考えたと言う事でしょうか。
■どう考えてもキンちゃんは「男の子として恥ずかしくない様」育て、グンマは「御自身が満足した人生を過ごされれば結構です」という違いが高松にある気がして。自分で自分の人生を作って行ける様な器用さとタフさが、漫画の方のグンマにあるかは不問ですが。よかれと思って高松が本気で「指導」しないが故に、グンマも自分の未来が見えなくて高松を恨むかも。
その理由が、キンちゃんが高松の愛する人の息子で、グンマはそうでないという事でないなら。ここは素直にとって、キン・グンの個性の差だと思ってみました。キンちゃんにグンマの様に生きろと言っても無理だし、グンマもキンちゃん程闘争心豊かな子ではありません。
■グンマが実は「女の子」で、キンちゃんは男の子だから、グンマは成人しても荒い風にも当てないで暮らさせ、キンちゃんには心を鬼にして武者修行もさせるというなら分かるんですが。
(※割と本気の高松はスパルタ教師でもありそう。ルーザー様程ではないけど、獅子の如くキンちゃんには挑みそう。グンマの高松への積年の反撃としての隠居騒動でも、高松は「キンタロー様を自立に導く千載一遇のチャンス」と見て、グンマの怒りに合わせて来そう。)
高松がキン・グンの実の親なら何の疑問も起きないんですが。「高グン」、大袈裟に言うと高松はグンマの彼氏だったとして考えるなら、「偏屈でいい加減な男だとばかり思っていた高松が、キンタローという新しい子にはまこと誠実にゆかしく振る舞っている」という事態に、グンマは反感を持つかもしれません。まさしく愛のない嫉妬劇。 |
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