■インテは6号館Dゆ73bです。よろしくお願いします。今夏程、いつものインテでありますようにと願うインテもないかもしれません。
高松はキンちゃんの言動に傷つき、分別なくガンマ団本部を去っていったのではなくて。高松程の男、ガンマ団を離れてもマジックや他勢力からの監視は免れないでしょうし、反抗なんてキンちゃんの成長の証ですから、むしろ高松は反抗されて嬉しかったでしょう。しかも愛くるしい第一次反抗期なんですから(多分)。
反抗期を向ける相手に青の一族の男達でなく、高松を選んだのは、キンちゃんが高松を信頼している証拠に他ならないと思います。高松が本部を出て行ったのは、例えば「主治医なのにコタを昏睡から救えない事」をシンタローが許さなかったからとかかなと思います。
(グンマが高松に反抗期を示さなかったのは、高松を警戒していたからかもしれない。南国後、潔癖な所のあるシンタローに「僕、ずっと高松にこんなひどい事されてた」と告白すればグンマは百人力。)
■先日から書いているエロの話です。昔エロが苦手だと言っていたら、「その割には荷風と谷崎を読むんですね」と言われ、返す言葉の無かった事があります。
谷崎は、奇跡的にイヤラシイものへの嗜好と小説家たる大衆性のバランスが取れている事と、潔いまでの頑固さがいいなとか。荷風はああ見えて超がつくくらい真面目な人だったのだとか言ってみても始まりません。
比較的最近読んだ康成の「山の音」に、主人公の息子が妻と愛人をほぼ同時に妊娠させるという場面がありました。そういう生活だったのが丸わかりの描写です。
妻は子供を生むのを拒み、愛人は男に頼らないで一人で生んで育てる事を決めます。単に「同居の息子夫婦の生活を覗く機会のある父の話」なら、普通の小説だったかもしれません。正統に子供を授かった妻が拒み、愛人の方は生む選択に康成らしさを感じました。「自分の事」ではない世界で起きる愛欲の事件を、遠くから眺めているのが康成なのかなと。
究極のエロは「自分が味わう事のない」エロなのかなと、康成を読んで思いました。書き手に共感できないと読めないのはどんな作品でも同じですが、エロはさらに個体の描写なので、作家&登場人物と「意気投合」しないと読めません。あえて操縦桿から手を放し、空中をさまよう様なエロを選んだ康成が怖いです。
(そう思うと。亜美ちゃんの男×男押しは、読者の支持が得られると思っての選択だったんだろうか。今でこそ男×男を好まない層が、亜美ちゃんの漫画を進んで読むと思えないけど、昔は「ギャグ作家」として認知されていたはずだから、相当拒否反応起こした読者もいただろう。
普通の男女のエロでも嗜好が分かれそうなのに、さらに狭き男×男を需要無視のまま商業誌で押し、亜美ちゃんはごく自然の流れで自爆を招いたのでは。)
■普段読む作家の事しか触れられなくて済みません。漱石が妊娠中の鏡子さんに対し、「子供ばかり産んで困る」と言ったら、漱石の友人が漱石に「君の責任もなくないか」と言ったそうです。自分の夫婦生活を臆面もなくしゃべったも同然な漱石は、小説でも主人公達にそういう事に冷淡ではいさせません。いわゆるエロとは違うと思いますが、貪欲だなあと思いました。
(憎悪し合うような津田と延子ですら、延子は懐胎しているのではないかと言う推測がある。津田の子を宿しながら、津田がどんどん自分から離れていくのを知り、延子が絶望するらしい展開を推測する読者もある。
仲がいいから当然夫婦も密接になり、結果子宝に恵まれるというのは現代の考え方なのだろうか。行人で岡田が「結婚して子供がいないと自分が不完全の様で嫌だ」と言う場面があるので、漱石の頃は今の様に、「結婚も出産も個人の価値観で決めていい」という風潮は無さそう。
現代においては、ほとんどのエロは選択的エロだと思う。女性向けの話かもしれないけど、唯々諾々とした関係でのエロは昔ほどは無いと思う。漱石は義務的・古典的・模範的エロだなあと思う。) |
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