■平日は原稿が書き(描き)たくて死にそうなのに、休日になると疲れと雑用でどんどん時間が経って行きます。
そんなわけでこれから小説を書きます。高松をいかに自然に書けるかが命だと思いますが、自分の思う自然なんて歪んでいます。自分は昔、何かでキレた時に、「ナチュラルメイク、自然な着こなしと言われる装いはあるが、人体に何らかの手が加わっている以上自然とは呼べない」と口にした事がありますが、装う人の感性が自然に表れているのなら、自然なものなのだと最近思います。
■「分からん」と思った時でも、自分が触れても分からないだけで、きっと自然な事が起きたのだと思います。漱石の行人で三沢が二郎に見合いをさせようとして、二郎を観劇に招き、見知らぬ女性を紹介なしで会わせる場面があり、三沢が「自然な出会いだ」と満足する場面があります。金持ちで余裕たっぷりの三沢だからかまいませんが、没落寸前の長野家とすれば「そんなイタズラはいいから、行き遅れそうなお重をもらってくれ」と言う所でしょう。
高松はいちいちもったいをつける男ですし、万が一ルーザー様やキンちゃんと自分が対等なのだと思ってしまえば恥をかくと分かっているので、愛されても他人行儀でしょう。ルーザー様とキンちゃんにすれば心の浪費に他なりませんが、「高松がそうしたいならそうすればいい」と思っていそうです。高松と愛情を確かめ合う方法は一個じゃないと、怒りんぼのルーザー様もうは知っていて、気短なキンちゃんは近年知ったとか。
■谷崎が漱石の門を評価し、明暗を批判したのは有名ですが。逆に門までを批判し、明暗の漱石を評価した方もいるので、不思議な感じがします。自分はいつの頃の漱石も好きですが、登場人物とすれば長野一郎が好きです。一郎の妻、娘、妹、父母は皆一郎を煙たがっていて、友人のHさんだけが一郎に優しいようです。
普通に一郎と知人として付き合うのは楽しいと思います。紳士ですし仕事熱心、博識でもあります。ただし一郎の頭脳、趣味、傾向など一切関係ない、夫・父として、兄として、息子としての一郎は自分に自信がないようです。長野家はもう傾いていて、一郎が教授をしているくらいでは、二郎もお重も結婚できません。
一郎が一番しなけりゃいけなかったのは、長野家の再興だったのですが、勉強しか出来ない一郎には無理です。妻のお直と弟の二郎が、精神的に不倫の関係にある事すら怒る気力は彼になく、「いっそありのままセンセーショナルに2人が動いてくれればいい」とまで思っています。
自分は一郎の家族として彼を好きになる事は出来ませんが、一郎自身になったかのような気持ちで行人を読み、一郎の悩みに添う事は出来ると思います。谷崎論的な論文は読めても、漱石論、漱石作品論を読まないのは、作品中から外に出たくないからです。同時代の人達がどう漱石を受容したのか気になる所ですが、時が止まった様な漱石の作品世界が好きです。 |
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