■漱石の「こころ」についてです。漱石の作品をふとした時に思い出して、登場人物を知り合いの様に感じる事多々です。自分が日文に進まなかったのは、心の中の知り合い達を「研究」する事を拒んだからかもしれません。漱石や甲野さん達の価値とか意味とか、自分が知っている範囲でいいかなと思いました。(甲野さんなんて非難されまくりの人の気がする。一郎も「身近な人を研究するのは辛い」と言っていた。)
(少し前、柴田亜美作品、原作者ご本人についても「研究」しようと目論見たけど止めた。高松はどこを切っても変態だし、それでいいと思う。原作者について「判明させたい」と思う事もあったけど、多分とても辛い作業になると思う。南国もPAPUWAも本筋以外・脇役達が面白いパラドックス全開。)
こころのKが先生の下宿に居候している時、寒い日だったのでお嬢さんが火鉢の火を起こそうかとKに言います。Kは寒いけれど火鉢はいらないと言います。お嬢さんはKをおかしな人だと笑い、先生はKが精進しているのだと考えます。
Kは変人なのでもなく、精進しているのでもなく、炭を買うお金がないのです。実家住まいのお嬢さんや、裕福な先生には想像もつかないですが、Kは自分の貧乏に悩んでいました。先生の下宿にいれば暖かい部屋で御飯を食べられますが、たかが友人の先生にそこまで無償でしてもらうのはKの苦痛だったでしょう。
だからKはお嬢さんと男女の仲になり、結婚にこぎつければ家族として彼女の家で暮らせるのではないかと思案します。先生にとっては最愛のKが他の女に浮気した大事件と映るのでKを非難します。Kは貧しくとも気高く生きている事が誇りだったので、女性にたかろうとした自分をあさましいものと思い自殺します。
Kの悩みと苦痛は最期まで、先生にもお嬢さんにも知られませんでした。Kにとってはその方が良かったと思いますが、人の悩みなんて、どれだけ長く側にいようと分からないのかもと思いました。赤貧洗うが如くのKは先生に「お前に養ってもらうのが嫌だ」とは決して言えなかったでしょうし。
■南国がテレビアニメで大人気だった頃。自分はクラスメイトの女子に「竹淵は女の子でよかったね」と言われました。オタクでも、女性であれば身だしなみや振る舞いに気を付けるだろうから、不幸そうに見えなくていいねと言う意味だったかと思います。
当時は男性より女性の方が、趣味や生き方の選択肢が多いのかなと思いました。今はどっちとも言えないと思います。ただ女性の方がどちらかと言うと親和的に暮らす気がするので、オタク故にいじめられたとかはないです。ただオタク生活が自分にとってかけがえのないもの過ぎて、困った事はありました。
■谷崎中期の作品に、「夢の浮橋」という中編小説があります。谷崎が書いたから納得の様なものの、どうして谷崎はこれが「受ける」と思ったのかと思います。
谷崎はどうしようもない人ですが、小説家なので仕方ないとして。読者とすると読書中は谷崎の価値観と付き合う訳で、流石谷崎中期の作品だなあという内容です。初期ならピュアな作風なのか、後期は落ち着いてきているのかというとそんな事はありませんが。
谷崎は実の家族と疎遠、最初の妻とも不仲です。二番目の妻も可哀そうで、友人達とも喧嘩しまくってます。荷風の様に自分の家系や地元にこだわる事もありませんし、想像上の父母、妻、愛人達をこしらえる事に全力を注ぐので、そんな谷崎の世界に納得がいけば愛読者になれるかなと思います。谷崎の世界にかこつけて、自分の変態性を満足させられるお得さを感じます。 |
|