■自分の高松本既刊を読み返すと、キンちゃんが徐々に子供っぽくなり、高松の瞳が大きくなっていました。最初は二人とももっと大人っぽい感じを目指していたのですが、続けられなかった様です。
ルーザー様存命パラレル妄想で、「外食でラーメン屋かうどん屋に行って、小さいキンちゃんに自分の麺をとりわけるルーザー様と高松。味が2つあって喜ぶキンちゃんと、マジックと御飯を分け合う経験がなく、そんなの信じられないと言う顔のグンマ」を想像しました。
マジックなら自分の御飯をグンマに取り分けるより、使用人にグンマへ大人の量の御飯を出させ、「残しなさい」で済ませるだろうなあと。自立心の養成というか、衛生面からというか。その前に青の一族はラーメン屋にもうどん屋にも行かないという突っ込みも。
ルーザーさんちは図書館の帰りにでも、という事であり得るでしょうか。キンちゃんに食べてもらうために、趣味も兼ねて、家庭菜園に勤しむ高松はあり得ると思っています。
■風とともに去りぬを読んでいます。アトランタに北軍が迫っています。カーレットにレット・バトラーが求愛しないのは、彼女の自我の目覚めを待っているからだとか。幼い我が子を放置して、ダンスと逆ナンパに勤しむ彼女に求める自我って。
レットは女性的なロマンスを否定する様でいて、実はロマンチックなものに飢えている気がします。買春も辞さないレットですが、スカーレットは彼の思う様なたくましく賢い女性にはならないと思います。人は結婚すれば、親にになりさえすれば人となりが変わるのかというと、「変わらない」のだと既にジェラルドとエレンの例で解答済みです。
スカーレットにレットが求める様な知性・理性があるのなら、既婚者のアシュレーにあんなに夢中になるでしょうか。アシュレーが家のせいで自分を妻に選べなかったのだとしても、家訓を優先し、かつ自分の息子の母としてスカーレットを選ばなかったのだとすれば、劇中でスカーレットとアシュレーが結ばれる事はないでしょう。
あと関係ないですが、一口に「戦争」といってもしっかり詳細とドラマを書いてくれると痛快です。柴田亜美の思う「戦争」が、WW2末期の迷走した日本でなくて、ある程度客観的に見られそうなアメリカの南北戦争ならよかったと思いました。
■グンマと高松に付いて考えていたら、漱石の書く家庭の様だと思いました。
虞美人草で甲野さんが、「人の世話になるなら、世話してくれる人を信仰しないといけない」と言っていたと思います。言い方は違ったと思いますが、義父母から馬鹿丁寧に扱われ、実父母からは「自分達はお前の祖父母である」と嘘をつかれ、実母の出身も一部漱石には秘密と、虚々実々の激しい暮らしだった漱石らしいコメントでしょうか。
彼岸過迄でも、須永は母と二人暮らしで、母は本当の母でなくて、須永は父が女中に生ませた子供です。母はその事をずっと隠し、親類の千代子と須永を結婚させて、「本当の家族」を作ろうとしています。母のたくらみのせいではないのですが、須永は千代子を愛しながら、彼女と結婚はしません。
外、仮面夫婦の先生と静とか、全てに絶望している一郎とか、思えば悲しい人ばかりです。
■高松もグンマに本当の事は決して言いません。グンマは尻尾を出さない高松にお手上げだったと思いますが、高松が完璧に振る舞ううちは、それでもいいと思ったかもしれません。
キンちゃんの登場で高松は馬脚を現しました。キンちゃんを全てから守ろうと決めた時の高松は美しいです。いつもはただの陰険なのに。あそこまでグンマのために猛々しくなったことないのでは。
漱石の先生も、静に本当の事は死ぬまで言いません。その方が静が幸福だからと先生は言いますが、「隠し事をされている」不幸を静は感じています。グンマと静、又は甲野さんの独善的で未熟な価値観に振り回され、好きな人と結婚できず、更に死まで与えられた藤尾は似ています。 |
|