■電車についてです。漱石を読んでいると印象的な乗車の場面があります。記憶で書いてみるので、間違っていたらすみません。
・・・漱石は電車を、市電や汽車、船も含めてですが、何か運命的なものとしていた気がします。市電は乗車距離が短いので日常的なもののはずですが、市電を乗りこなせるのが都会人なのだという誇りが感じられ、虞美人草やそれからに市電が出てきます。
船に並び、汽車もよく出て来て、こころの私が先生の手紙を胸に東京行きの汽車に飛び乗っています。あの汽車に乗ってしまった私は、郷里ともめたと思います。先生への私の愛を示すために、漱石は私を汽車に乗せました。
鉄道への乗車は、とても個人的な事なのだろうなと思います。大勢で行く遠足とも違うし、マイカー、大型バスとは違い、車両・路線・駅という自然に近い人工物と時間を共にするのは、とても個人的な時間だと思います。漱石の門下生である内田先生の電車好き、その先生を私淑する宮脇氏の作品群は、自由を愛する点で繋がっている気がします。
■明暗。漱石では定番の、湯治に行く傷病者の描写だけれど、明暗は何かが違う。行人の様なカタルシスが少ない。軽便で遠い温泉場に行く津田は単身で、新妻を置いて以前の恋人に会いに行くのだから、湯治が夫人のやらせであったとしても後ろめたさはあったと思う。
いや、傲慢で自分勝手な津田が罪悪感を抱くようになるのが明暗の骨子だったとしたら、漂う不吉な感じは序章に過ぎない。温泉場で危篤に陥った津田を助けに小林が駆けつけるとか、津田の二心に我慢で出来なくなった延子が同じく軽便で温泉場に乗り込み、お産に響いてしまうという展開が待っていたとも言われるから、漱石なのに電車の描写が暗め。
■漱石と鉄道と言えば坊ちゃん。松山市内を走っていたのは小さい汽車であり、坊ちゃん当時の姿ならいわゆる市電ではなかったと思う。可愛くて高性能、乗ってお風呂に行く描写が大好き。
清と、四国に行く坊ちゃんが停車場で別れる場面も泣かせる。坊ちゃんは教師になるために四国に行くのだから清は我慢し、ずっとホームで坊ちゃんを見送っていた。坊ちゃんも四国で夢に清を見たり、清からの手紙をソワソワと待っていたりで、いい描写が多い。
こころの先生と私とか、離れて尚思い合う描写はいいと思う。自分が書くとあざとくなりそうだけど、南国後にガンマ団を退いた高松とキンちゃんは、こんな感じかなと思う。グンマは「あれが近くにいないとスッキリしていい」と思ったのだろうか。側にいないくらいでスッキリする話だったのか。
南国のシンタローも、側にいない弟を遠くで案じる兄と言うのがよかった。会えなくても、離れていても家族は家族だと思う。亡くなっていたとしても。・・・グンマは寝たきりのコタや、行方をくらました高松を家族ではないと思えるらしい。(高松は他人だから仕方ない)
■三四郎の冒頭。名古屋辺りで見ず知らずの女性と一泊するけど、何もしない三四郎。その後広田先生が汽車に乗って来て、和気あいあいと桃を食べる2人。三四郎は女性より男性が好きなのかと勘繰る。そういう話じゃなくて、美禰子との淡い恋愛の話だけど。
■虞美人草。ここでも東京に向かう汽車が出て来る。話の初めの方で、京都から東京の小野の所へ行く小夜子達と、京都見物を終えた甲野さん達が乗っている。カップル扱いの小野と小夜子が終始つまらなそうにしているなのに、何故か劇中独身で終わった宗近君が元気な小説。
個人的には人力車で大森に向かい、小野がいないから怒って屋敷に帰って来た藤尾が好きだ。漱石を読んでいると、人力車に乗る女性にときめく。行人のお直とか。 |
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