高松がガンマ団を出て行った時の事を考えていました。恐らく寝たきりになったコタの診療と同時期だったでしょう。コタにはマジックがいるのだから、充分な医療が受けられます。高松も求められる医療を提供しようとしたでしょう。ただし、「一刻も早くコタローが元気にならないと、私がシンちゃんに嫌われてしまうよ」と言い募るマジックを、高松はどう思ったのでしょうか。
マジックなのでそうなるだろうなという諦めは、高松でもあったと思います。でもガンマ団なので怪我した団員と、その団員の恋人との看護の場面も多々あるでしょうし、高松はああ見えてウェットな男なので、どちらかと言うともらい泣きするくらいのシーンの方が好きじゃないかなと思います。ドクター、彼を助けて下さいと言われれば、よし来たと思わないでもない男なのでは。
(高松のトットリへのセクハラは、何かトットリが高松を怒らせる事を言ったのかなと思う。ソネ君につまらない事を言われただけで激怒する人なので、トットリが普段通り皮肉ったら報復されそう。)
コタにドライなマジック、グンマにも事務的なマジック。これらは高松の想定内だとしても、ルーザー様がいなくなった時もそういえば、この人はあっさりしていたなと思い出してしまったら、隠居も間近なのかなと思います。高松は身勝手で傍迷惑な男ですが、義憤や、優しさと無縁の男ではないと思っています。
■回想ばかりですみません。小中学生の頃、漱石になりたかったです。猫を飼い、物を書き、静かな書斎にこもる生活。今想像しても素敵だと思いますが、高校になって、担任の先生が国語だったので漱石の話題になった時、いかに漱石が超知的エリートなのか話してくれました。
漢詩の授業だったと思いますが、漢詩を作るのは法則が大変細かく難しいそうです。日本人で漢詩を作れるのはすごい事だと、担任の先生は言っていました。ある本で漱石の漢詩は中国語として読んでも正確だと語っているのを読み、安易な憧れを捨てました。
■国語の教科書で小説や詩、俳句を読むたびに、幼い頃は自分でも書ける様な気がしていました。けれど、藤原定家の頃に読まれた和歌が今も愛されている事実を思うと、誰にでも出来る事なんかじゃないと高校の頃思いました。
漫画やアニメを見て、面白い面白くないと思うのは自由かもしれないけど、発表されるまでの積み重ねを思うと、安易な事は言えないなとも思いました。一視聴者として一喜一憂するのはいいと思いますが。二次創作はどちらかと言うと後者で、あくまで内的な楽しみなのかなと思います。
■コンビニのアルバイトは誰にでも出来る事かもしれませんが、学生時代のバイトでも結構ヘマをして来たので、いつの間にか人並みに暮らす事が自分の目的になりました。コミケとシティ、インテに参加し、新刊を頒布する体力と時間と財源の維持で自分は精一杯です。恐らく漱石並みの超知的エリートである高松に、自分はなれません。
今日の日誌のタイトルは物真似です。荷風の真似をして東京散歩に繰り出し、朝から布団の中でショコラを飲む事は出来ても、仕事(荷風の場合、銀行勤務や教授職)を辞めて文人になる事は、自分には出来ません。猫を和室で飼う事は出来ても、世紀の文豪にはなれません。・・・言わずもがな、伊豆や湯沢の高半に泊まって康成気分を味わう事はあくまで物真似で、康成はノーベル賞作家です。 |
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