■南国高松雑感です。高松にとってグンマはルーザー様の子供であると嘘をつく事が、「ルーザー様のためなら何でもする」という事だったのでしょう。
キンちゃんは事情が分かれば、つく方も辛い嘘なんかついてもらわなくても、俺はお前と過ごしたかったと言ってくれるかもしれません。例え悪い人でも、子供には守ってくれる親がいた方が、子供は幸せなのだと言う高松の考えは、分からなくないです。
・19歳にして余生気分 ・終生の願いはルーザー様の遺児が、父親や友達と幸せに暮らしてくれること。そのためには、ルーザー様を死に追いやったマジックを利用する事も、そのマジックの息子を自分の手で不幸にする事もためらわない。
・高松の固い決意を余所に、眼魔砲が撃てないし、高松を野良犬の変態医者と見なすシンタロー。仕方ない。 ・小春日和も束の間、シンタローに弟が出来る。いつまでも眼魔砲が撃てないし、何かの間違いで普通の人間として生まれたと思われるシンタローに、マジックがある意味見切りをつけたとも言える。
・弟が生まれて喜ぶシンタローに感動する高松。青の一族の生殖に疑問はあるが、その生殖を成功させるための医者こそ自分なのであって、結果、生まれた子が家族に愛されるのは喜ばしい。ルーザー様も、ハレやサビが生まれた時は、こんなふうにお喜びになったのかなと、自分が年を食った事を実感する高松。
・が、父親のマジックはコタを気に入らない。気に入らないから幽閉したが、普段のマジックなら気に入らないものには死を与えるだろうから、余程シンタローに嫌われたくないのだと観察する高松。
・シンタローはルーザー様の子供らしくなく、父に逆らい、自分から家庭内のゴタゴタを解決しようと思っているらしいので、コタは日本にいるのだとこっそり教える。シンタロー死亡、キンちゃんの出現に続く。
■思い立ち、荷風の断腸亭日乗を昭和19〜23年まで一気に読んでみました。偏奇館消失のくだりが、日乗屈指の名文とされているそうですが、自分は大正期、昭和初期のゆったりした日乗の方が好きかもしれません。
普段斜に構えた荷風が、残酷な空襲を前にしている様子の緊迫感故の臨場性が名文と言われるなら、自分は多少嘘でも、荷風にはゆったり過ごしている方が似合うと思います。10月から読んでいる日乗も、残り一冊です。寂しく、しばらくは呆然としていそうです。
日乗も残るは千葉の暮らしの描写になります。荷風が千葉を選んだ理由は当時まだ閑静な田舎だったからじゃないかと思いますが、ある意味戦中より辛い時期かもしれません。
日乗を読みながら、一方で自分なりに漱石について日誌で触れていました。かなり不敬な事も書きました。
作家と作品は別であるとか、作家の性格云々は問うべきでないとか、色々考えて頭が痛くなって、漱石に救いを求めました。漱石に救われたいと思ったあたりから、既に答えは出ていて、小宮達が漱石を過剰に敬愛していたり、漱石が発狂したと報道され、鏡子さんもその辺は首肯しているとしても、自分は漱石が好きです。
漱石は、会おうと思っても会える人ではありませんが、会って話がしたいとかは思いません。ただ遺作、遺言、漱石の思考的軌跡と言える作品を愛します。漱石という作家も好きだし、小説も無駄に気位が高く、ツンデレでナルシシストでも好きです。
そう思える作家に出会えたことが千載一遇の幸せです。仮に漱石や荷風でない作家と、何か読者として面白くない事があって、あの作家の性格や特徴がどうの、この作品が不燃焼過ぎて解せないなどと申すのは不敬の極みだと思いました。 |
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