■特急ときが、群馬の伊勢崎の華蔵寺公園にあるそうです。今までは蒸気機関車が静態保存されていた場所に、置かれ、来園者の休憩所にされているそうです。
特急ときは国鉄らしい肌色に赤の車両です。テレビで懐かしそうにJNRと語られる時代の象徴の一つなのかもしれません。自分はJNRの頃を全く覚えていないのですが、今でも鉄道と言えば国鉄時代のイメージの方も濃いらしいです。
古いから全て固定化した思い出、ではなく、静態保存されているはずの特急の写真を見ていると、まるで車両が生きているかの様な印象を受けました。古いとか、懐かしいとか思って特急ときを見ると、別にそんな事もない、自分は今ここにいる、と彼(とき)に言われそうな気がしました。
■アナ雪について思い出していました。オラフが好きです。オラフは映画冒頭にも出て来て、アナとエルサの温かい幼少時代の象徴なのかなと思いました。なので、オラフは愛についてさらっと語れたり、無邪気で愛らしいのかもしれません。そうかと思えば、誰よりも献身的であったりで、終始いいキャラだったと思います。
城に扉が開き、新しい世界に胸を弾ませるアナに、自分にないものを感じました。何故アナが皆から愛されるのか、分かる気がします。エルサは慎重な性格だそうですが、内心、アナと同じように新しい空気に対して思う所があったのかもしれません。
■自分の中で訂正をしなくてはならない事が出来ました。自己瞞着している問題なら、傷は内面にあるので隠しようもあるかもしれませんが、好きなものについて自分は意見を変える必要を覚えました。
歴史物が好きだと思っていたのですが、古いから内容が変わらない、古い物は評価が定まっていて接し方もある程度固定化している、という認識の上での好感なら、根本的に誤っていたのでしょう。
歴史研究の上での変化、解釈の多様化でなくて、なんかこう、例え源氏や伊勢物語の様な古典中の古典でも、時々全く自分の知らない物の様に感じるのは、あながち気分やデタラメではなかったのだと思いました。自分が思う彼等より、本来の彼等の方がずっと生き生きしていそうです。
■最近読んでいない漱石も、多分今読んだら別物の様に感じると思います。安定の漱石、慣れ親しんだ漱石って何だったのだろうと、私は途方にくれると思います。読み方の一つに、例えば門の宗助の過ちと癒されない孤独への共感があってもいいと思いますが、ならばその共感は作品への接近になるのかというと、否かもしれません。
そう思うと今まで生きて来て、自分を慰めていた数多いあれこれと、自分の距離を意識せねばならなくなるのでしょう。それは残念だとか辛いとかでなくて、体中の血が流れ出て行って死ぬような脱力と、ショックで擬死する昆虫の様な感じかもしれません。
昆虫の外敵は死んだふりすると去ってくれるかもしれませんが、自分の場合、内面から湧き出るものとの対話になるので、ずっと死んだふりしている訳にも行きますまい。そのまま昇天できないのなら。 |
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