■多分見当違いの事を書きますが、漱石の門についてです。宗助は、いつ人生を狂わせたのかなと。宗助は裕福な家の子に生まれ、帝大で学び、友人も多かったようです。それがいつの間にか崖下の暗い家に住んで、家を貸している大家さんは、宗助が帝大に在籍していた事を知りません。
当時の大学中退の意味がどれくらいのものなのかは分かりませんが、大学を卒業したこころの私、私の兄への両親の反応を思えば、周囲の大卒への期待は相当のものだったでしょう。こころの私は、自分が帝大卒なのも忘れて、実家で臥せる父を捨てて、先生と先生の奥さんの下へ行ってしまいますが。
宗助が御米を得た後の凋落ぶりは本編にありますが、御米が安井の下にとどまる選択肢は無かったのでしょうか。荷風なら、もっとしれっと書くだろう事件ですが、漱石なので御米は宗助を次の夫にした様です。門が漱石の作品で特異に思えるのは、御米が宗助に一途だからかもしれません。他の作品の夫妻も、妻はもちろん貞淑ですが、夫に呆れたり嫌悪したりしてた気がします。
宗助が明るい未来も御米も同時に得ていたら、門という小説は始まりません。漱石の小説で、夫婦仲の完全さと、世間的な幸せが両立している事が少ない気がして、作品群の中で珍しく所得の低い宗助ならではの幸せだったのかもしれません。もし宗助が、社会的な欲を帝大時にむき出しにしていたら、御米を求めなかったでしょう。
宗助の人生が御米との出会いで狂ったと言うより、若い宗助が内心求めていた幸せって、御米の様な女性とひっそり隠れ住む事で、初めて得られるものだったのかもしれません。安井の再登場で根底から失われる様な幸せですが、御米なら前夫が隣家に現れても、動じなかったのではと思います。
■楽しかった事を思い出していました。でも楽しかったと言うのは、自分がこんな事出来たから楽しかった、というのは少なく、よく考えたら、どなたかの努力で自分も楽しいひと時を頂けたのだというのが、正解だったと思いました。一人で至福に浸ったなんて思ったら、間違いだなと。
同人誌即売会に参加するのが自分の趣味ですが、赤豚、コミケと同じくらい、オンリーイベント、プチオンリーイベントに参加させて頂いております。主催される方の苦労を思えば、自分など、上げ膳据え膳の楽ばかりさせてもらっているのだなと、自省の念に駆られました。
イベントの楽しい所だけいつも味わわせて頂いておきながら、少しの事でワーワー嘆く自分を崖下かどこかに放り出して来たいです。
5月のSCCでは新刊の予定はありません。SCC後、夏コミに向けて何かしようと思います。また、のったりした高松本の予定です。ルーザー様とキンちゃんについて書き(描き)、いよいよ10冊目を迎えます。 |
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