■中島敦を読んでいます。短編集を借りたので、今は斗南先生を読んでいます。中島敦は山月記が高校の教科書にあったので覚えています。「主人公の傲慢さについて、自分の胸に手を当てて考えてみよう」という授業を受けたかと思います。
主人公の傲慢さより、彼が恐らく群を抜いて優秀でもあっただろう事の方が、当時自分は気になりました。自身についてあそこまで悩むなんて、一定以上の知性と倫理性の持ち主な訳で。そういう奇抜で、上手く行けば出世し能吏にもなったろう男に対し、一介の女子高生が共感とか逆に不当じゃないかと思ったものです。
何故、国語って「主人公の気持ちになってみよう」というのが多かったのでしょう。学生は作品の書き手ではないのだから、観賞する方の立場です。リラックスして感情移入して楽しむ方の作品ならいいですが、硬派な作品の場合、主人公の気持ちを見抜く事自体大変難しいのでは。
国語で鴎外の舞姫を読んだ時も、クラスで飛び交った感想は、豊太郎は酷い、エリスが可哀そう、エリスは豊太郎との子供と強く生きて欲しいとかの方が圧倒的だった気がします。当時自分は歴史小説好き、特に中国古典を題材にしたものに凝っていたので、エリスと豊太郎の別れについて憤慨出来ませんでした。
か弱い異国の女子と、未来を嘱望された日本の英才が、永遠に結ばれる結末だったら、多分そちらの方に自分は違和感を覚えたかと思います。でも舞姫も小説なので、艱難辛苦を乗り越えてエリスを愛し抜く豊太郎というのも、可能性としてありだったと思います。起きた事件を美化しないのが鴎外なのかなと思います。
・・・鴎外が軍人であると同時に文学もしていたのが、豊太郎と同じ恨みを抱えた鴎外の報復だったのでしょうか。
中島敦、鴎外と硬派を自分は好む様に見えて、原稿は甘いルザ高か甘いキン高って、自分でもよく分かりません。虎になった男は人間の世界に帰って来なかったでしょうし、エリスは正気を取り戻さなかったかもしれません。自分は原稿の中でその決断は出来ないでしょう。荷風や谷崎の、主観多めなのに確固とした芸術である部分に憧れます。
■劇場版ナデシコを思い浮かべながら、テレビシリーズを見ています。
劇場版は80分、テレビは26話という長さの違いなのに、両方とも同じくらい楽しめるのはすごいと思います。劇場版は80分かけて成長したルリを動かし、テレビでは26話かけて、成長していくルリを見せてくれるので、ルリ密度を思えば劇場版とテレビは同じくらいだったと思います。
ユリカについては、劇場版で彼女がパワーダウンした気がしません。テレビ通り、眠っていてもアキトアキト言い、すっ裸だろうと水着だろうと、ユリカはユリカなんだろうなと思います。むしろ、彼女のパワー、破壊力は拘束されて尚激しさを増した気がします。
アキトが自分の身に起きた事を、婚約者?のユリカに言わず、ルリに語ったと言うのが印象的でした。ユリカにもおいおい話さねばならないと思いますが、ルリだから多少言い返してもちゃんと話を聞いてくれたのであって、ユリカならアキトの苦しみをガン無視しそうです。
アキトの五感、アタシが治して見せるとかまたフルパワーのユリカがいつか見られるのでしょうか。アキトの体について、詳しく把握しているのが恐らくアカツキ、エリナくらいだろうと思うと、ナデシコらしいなと思います。 |
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