■今夏、中央本線を完乗しようと思います。東京〜新宿は何度か乗り、塩尻〜名古屋は去年乗りました。後は新宿〜塩尻を残します。一気に乗ってこその完乗とも言われますが、致し方ありません。東海道新幹線で日本を横断していると、「次は中央線だ」と思えてきます。そのうちリニアが東西を結ぶのでしょうか。
旅程の目的地は長野の知人宅(お邪魔させてくれてありがとう)と、石和温泉です。電車と温泉が大好きです。気が付くとルザ高でもキン高でも、原稿がそんな感じです。ガンマ団保養所とか伊豆にある気がしてなりません。南国後、静養を兼ねて温泉病院勤務になる高松と、何故かくっついていくキンちゃん。
■不満ばかりの日誌ですみません。ナデシコの続編について考えていました。
・劇場版までになったナデシコである。ドラマCD等の短い後日談はあるけど、ナデシコ2的なものも期待される。劇場版に戦艦のナデシコの姉妹艦があるので、「2」「新」の「ナデシコ」は戦艦ならもう存在しているのだけど。
・新キャラで「2」「新」ナデシコを作らないなら、既存のキャラという事になる。ルリ、ユキナ、ジュンと末頼もしいキャラも多いし、上世代としていい感じにミナトさん、ホウメイさん、ウリバタケ、ネルガル社の人達・・・と役者はそろっている
・アキトとユリカは末永く幸せにという事で、カメオ的になるのかなと思う。しかし、テレビシリーズで芽生えたルリのアキトへの恋にスポットライトが当たるのなら、結構な惨状になりやしないかと思う。
・あの年若く可愛らしいけれど、冷静で知的で、職業人でもあるルリの、よりにもよって「恋」が踏みにじられるも同然ではないかと思う。テレビ・後日談ではルリの幼さ故に、恋心も未発達だったけど、もうルリは大人に近い。
ルリはアキトとユリカが、単なる漫談コンビではなく、男と女なのだともう知っている。テレビでも貴方の一番になりたいと歌うルリの、今の恋を諦めなければならないと鬱屈しかけている姿に泣ける。あんな辛い歌、アキトは普通のポップスと思って聞いたとしても、怒りもしないユリカは鈍感だと思う。
テレビ後にルリを見栄?で引き取ったあたりの無責任さからして、ルリの内面などユリカは想像もしないだろう。ルリと言えども、ユリカを恋敵だと見なさないとは限らない。ルリがメグミやエリナの様に、キッパリ出来るならいいけれど、内向的なルリに、トライアングルはきつ過ぎる。
劇場版で、ハーリー君に文句言われながら旧ナデシコクルーを集めたのは、アキトは兎も角、ルリがユリカとの直接対決を避けたからなのかなと思う。アキトからラーメンのレシピを渡された時、恋人との思い出の品を寄越すなんて、バカにしないでとルリが怒った様に、私は見えた。
■今家で取っている新聞小説の対象層がよく分かりません。何作か前は、複雑な家庭の子供が奮起して・・・という話だったり、穏やかそうな中年サラリーマンが事件に遭遇して・・・という親しみやすい話が続いたのですが、今回は読みにくいなと思いました。
一人称が俺だから読みにくいのかなと思いましたが、主語が僕や私だから読みにくいと思った事が、他の小説の場合あまりありません。高名な女性作家さんの作品らしいですが、男性の登場人物の気持ちが、自分には分からないです。
ならその小説の女性の登場人物の方の気持ちは分かるのかと言うと、あくまで「俺の妻」「俺の女性部下」というポジションで語られるので更に分からなくなります。
一人称の小説というと、谷崎の瘋癲老人日記を思い出します。あれは、延々息子の嫁に性的に興奮しながら、そんな嫁いないだろうにと思わせ、最後にあっさり看護婦さんや家族からネタバレされます。卍、痴人の愛と一人称の小説が谷崎にいくつかありますが、読みにくとは感じません。
漱石の場合、語り手の知り得ない部分をぼやかして書くために、一人称を多用したらしいです。こころの静と私のその後とか、誰も知り得ないはずなのに想像出来てしまうのは、語り手の意図的な漏らしなのでしょう。
一人称の小説の面白い所は、密やかに小説全体を探っていくいやらしさにあると思います。今の家の朝刊の小説の場合、強く自己主張せんがための「俺」になっている気がして、そそられにくいです。 |
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