■ナデシコのメグミの職業は声優です。アキトはアニメオタクの青年です。ゲキガンガーが好きなアキトにメグミが肯定的なのは、メグミの立場上自然です。アキトが戦場に向かおうとした時、「家でアニメ見ていてもいいじゃない」とメグミは言います。声優として多くの人を楽しませてきたメグミらしいセリフですが、一視聴者に過ぎないアキトには受け入れられるセリフではなかったようです。
アキトはゲキガンガーが好きだったのではなく、ゲキガンガーになりたかったのだそうです。ガイの早過ぎる死と、正義同士の戦いという泥沼に突入する物語とすれば、「正義を体現する存在になりたい」という思いは危険です。アキトは一元的な正義への憧れを捨て、愛するユリカと手を取り合う事を選んだ・・・訳でもないのですが、「見ているアニメと自分を重ねて興奮する」アキトの姿は一種の皮肉だったのでしょう。
アキトの、キラキラしたものに自分を重ねて喜ぶさまは、よく分かります。
■遅まきながら、ナデシコでルリ三部作の脚本を描かれた首藤氏の文章を読みました。ルリと言うと萌えを目指した嚆矢の様なキャラでいて、なのに地に足の着いた女の子だなとも思う不思議さを、少し理解した気がします。
「ルリちゃん航海日誌」では、本来の主役は煩悩より労苦より、愛(?)に素直なユリカだった様です。ユリカやアキトを眺めるルリ、という定番が出来た始まりがこの辺だったらしいです。木星蜥蜴から地球を守るお話でありながら、特定の勢力や、さらには特定のキャラの話でもないと言えるナデシコの始まりでした。
あんなに可愛く、魅力的な女の子を生み出しても、首藤氏がルリに肩入れしていたとか、ルリ押しだったとか、そういう印象にはつながりません。ナデシコはアキトが主人公だから、アキトに寄り添う女の子の一人という事でも、話の腰を折らないくらいふんわりと、ルリの個性を完成させた手腕がすごいです。
そのキャラを動かすのに、萌えも肩入れも自己投影も依怙贔屓もいらないんじゃないかと思えました。萌え等があったとしても、いい話にはある意味いらないのかもと。ルリの良さはまさにそこで、可愛い少女でありながら、お互いのプライバシーを守り合ってくれるような品の良さを感じます。
■週末は原稿の予定です。キンちゃんがボケで、グンマが突っ込みです。南国初期の意外と獰猛なグンマが好きですが、高松の登場で「甘えっこ(?)」の方向にシフトしたんでしょうか。アニメでもガンボットやヨッパライダーの形のメカで、雄々しくシンタローに挑んでいたグンマ。
高松なら充電が切れないし、動力が特になくても動けます。グンマがガンボットでシンタローに勝利していたら、高松の登場は無かったと思われます。なるべくなら自分の作ったガンボットで、家出中のシンタローに一泡吹かせるつもりだったのに、負けたからお守り役の高松を招聘。
幸せなひと時だったなと、ふと思いました。 |
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