■コスモポリタンについて考えていました。アレクサンダーが東征して、東西の文化が融合し、どこのポリス出身であるとかこだわる意味が薄くなった結果生まれた考え方だと聞いています。ミロのビーナスの時代の事です。
自分には難しいと思いました。ルーブル美術館で見たニケの美しさは感動の一言でも、自分の中身は蛸壺の様です。司馬遼太郎はよく、作品の中で人物の住んでいる場所の地形と人物の性格を関連付けて解説しますが、群馬には著名人が少ないのでテーマになりにくいのか、群馬と群馬人についての説は読んだことがありません。
ナデシコのルリ三部作を書いた首藤氏は、無国籍的な「どこでもない町」が想像出来たそうです。聖地参りが流行る前のアニメの町並みは、そう言えば外地のようでした。無国籍というと、かえってマカオの様なコロニアルな場所、又は北海道の様な雰囲気を想像してしまい、自分には難しくなります。
どこでもない場所、誰でもない自分を探しに出かけた事がありましたが、やたら寂しく、すぐに赤城山や榛名山、谷川岳、浅間山のある群馬に飛んで帰りました。
■南国とPAPUWAの違いは。南国では、キャラを理解するきっかけとして各自の背景や、物語の展開があったけれど、PAPUWAではそのワンクッションが薄くなり、こういう背景だからこのキャラはこうなのだと、ストレートになった所なのかなと思います。
ルーザー様だと。「このお人はかくしてこういった行動に至った」というシナリオが南国では分かるのに、PAPUWAでは「人工授精で生まれたから」と一刀両断されているのはどうした事かと思いました。自分はルーザー様の大部分を脳内補完してしまっているので、PAPUWAについて突っ込みはしません。
下にナデシコのルリについて書きましたが、ルリも試験管ベビーだそうです。何故試験管ベビーなのかというと、両親が長らく子供に恵まれなかったからという理由があります。試験管ベビーと言っても、育つのは母親の体の中での事なので、ルリもルーザー様も遺伝子上の母と生みの母があると思われます。
医者志望だった高松は、まさか最後まで試験管の中で子供が育つとは想像しないでしょう。そういう切っ掛けで命が生まれただけなのだという事を、彼は知っているはずです。ルリと同じで、生まれや生育環境はどうにもならなくても、その後の生き方を模索しようと、ルーザー様は一度ならず思ったかもしれません。
■首藤氏のコラムを読んでいると、ナデシコのルリは当初、もっと淡泊なキャラと想定されていたようです。アンドロイドの様な、「小さい大人」の女の子の様な感じでしょうか。コミックスの方のルリは複製可能な存在だったと思います、同じ顔の女の子が複数人いた気がします。
普通に両親から生まれて、家族で暮らした経験がないというだけで、アニメのルリは普通の少女として描かれています。遺伝子操作をされている事について、劇場版で配慮される場面があり、ルリが「ほんの少し操作するだけ」と自分で言っていて、ルリは大人だと思いました。
バカばっかと言っていたルリが、周囲に自分の思いを見せる事は物語当初ではなかったです。アキトとユリカが死亡したとされた後は、ミナトさんへ混乱した気持ちを打ち明けたりしたのかなと思います。
でもきちんと耐え、整理し、自分の道を進むからルリなのであって。ヒステリーになったり、自暴自棄になったり、しないのだろうなと思います。否、そういう衝動、感情面を制御できるのがルリなのだと思います。我慢している自分に酔うでもなく、「電子の妖精」の楽曲の様に自分を静めている姿が魅力的です。 |
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