■ユリ熊嵐を遅まきながら見ています。DVD一巻を見ました。美術がウテナっぽいなと思いましたら、美術の方がテレビのウテナ、劇場版のウテナの方と同じでした。
色っぽさ・可愛さ・美しさの向こうにある、監督の世界を思うと戦慄を覚えます。流石ウテナで「友達が本当にいると思っている奴は(略)」というセリフが出て来たもんだなと思います。ウテナの場合、ウテナのキャラがキャラなので希望的にまとまりましたが、以降、生存戦略とか、どんどんハードになっている気がします。
あえてまとめようとすると。
セーラームーン 「好きな人を守るために戦う(王道恋愛もの)」 ウテナ 「好きな人を守るために戦う(ただし自分は死ぬ)」 ピングドラム 「好きな人を守りたいが、第一話でその子が死亡」 ユリ熊嵐 「好きな人を好きと思うと世界から排除されるらしい」
出発点が王道セーラームーンであっても、どんどん何かが深まっている気がします。辛い場面でもウテナの場合榎戸さんの脚本がいつも起死回生の輝きを見せてくれていました。榎戸さんのフォローがあれば、とウテナ以降思いますが演出でぶっちぎりたい監督らしいです。
自分が思うだけですが。監督は美少女をアニメに出すけれど、少女の思う「夢」には触れないのかなと思います。どんな美少女も監督の意思の下にあって、例えば「素敵な恋愛がしたい」「キスってどんなの?」という、ある意味浅い願望は劇中に出て来ません。まさしく直子姫の世界的なもの。
アニメのウテナの暁夫が何故ああなのかと思うと。監督に「素敵な大人の男性に巡り合いたい」と言う願望がないからだろうなと思います。男女関係を男性から見ると、世の男性の即物性も暴力性も丸見えなのでしょう。「優しい男性」も「可愛い女性」も淡い夢なのだとしても、楽しく夢を見させるのが直子姫であって、監督はそうでないのかも。
■グンマと言えば科学ですが、本来グンマが学ぶべきだったのは、帝王学だったんだろうなと思いました。マジックですら帝王学は独学ですが、ミツヤがいたので、人を恐怖と微笑みで支配する方法は若いうちに身に着けた様です。ライオンパパの帝王学はどんなだったんだろうと思いますが、内に優しく外に厳しいというものだったのなら、マジックとは反対になるでしょう。
グンマと言えばキュートなメカですが。本来グンマが従えるべきはメカ・ロボではなく、人間だったのかもしれません。ライオンパパ、マジックがそうであるように、人間で将棋をしても責められない立場の子です。むしろいい将棋が打てなければなりません。その学問が帝王学であって、唯一、高松が教える事の出来ない学問です。
ルーザー様はあらゆる学問を高松に触れさせたと思いますが、あくまで使われる身としての学問です。高松自身が部分的にリーダーになる事はあったとしても、全体のリーダーは常にマジックです。
マジックのため以外に働けないルーザー様は、高松に支配者になる人の学問を指導する事はなかったでしょう。ルーザー様自身リーダー体質でないというか、ミツヤの頃に、命じられるという事が体に染みこんでいます。
暗い帝王学のアンチテーゼとしてのシンタローだったのかなと思います。シンタローも独学で彼の帝王学を極めた様です。グンマは相変わらず科学とメカですが、もっと本気のグンマが見たかったと思っています。マジックを新しい帝王学で圧倒するシンタローとか、パプワ、コタ、シンタローの普通の日々とか。全部頭に中にしかないのが残念です。 |
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