■細雪下巻を読んでいます。上巻の印象的な終わり方、いつか雪子は結婚した相手を自分の意のままにするだろうという予想は、現実にならないままです。妙子の人形制作も、お嬢さんらしい事で時間が潰せた昔が懐かしいくらいの感じで、人形制作が雪子のお見合いに役立つよというのも、匂いをさせただけでした。
細雪は、順当にいけば戦前の蘆屋・船場のセレブ一族の華美な暮らしを書くだけで、まとまったのかなと思います。もともと退廃的な富裕層の小説にするつもりだったと聞いています。戦争のために健全な家族小説になったとも。いずれにせよ、谷崎が明るく楽しいだけの小説を書く気がしません。明朗な印象があるのは台所太平記くらいでしょうか。
■「ルーザー様は私の胸の中にいる」というのを、ルーザー様のいないルザ高で今描いています。高松の生涯の気持ちだと思いますが、キンちゃんが登場するまで誰にも言わなかったでしょう。余りに恥ずかしい思いであるし、ルーザー様が一番に愛したのは兄と弟であるのだから、高松は黙っています。
そんな思いを唯一見せた相手がキンちゃんであって、キンちゃんも他言しないでしょう。血縁と同輩あっての自分だと高松から叩き込まれていて、彼等を大事にしないと高松はキンちゃんを許しそうにないです。母親の気持ちと言うか、キンちゃんをルーザー様の二の舞にしたくないでしょう。
高松のルーザー様への思慕の表現は、高松とキンちゃんの秘密になり得ますが、かつて高松と過ごしたグンマには長らくのクエスチョンだったと思います。ルーザー様が優秀な科学者だった事も言いたくないとは、むしろ、高松もマジックやハーレムの様に、ルーザー様を忌避していたと、グンマは思ったかもしれません。
自分への愛が、高松を生かしているとグンマは思ったでしょうか。高松自身も、自分はグンマ様のために生きているとか言うでしょうから。苦肉の策としての、PAPUWA高松の「グンマ様、キンタロー様」呼びなのでしょうが、高松程公式と非公式の顔が違う人もいないなと。
■自己投影について考えていました。二次元の爽快感の根源みたいなものでもあるので、全くなくすのももったない感情だと思います。
原作セーラームーンというと、全くアニメと別人のレイちゃんですが。昔から話題になるレイちゃんと言えば、アニメで元気よくうさぎと遊んだり、ちびうさにも心を配る少女の方だった気がします。原作レイちゃんが話題になるのは、主にアニメと別人だねと言う点だった気がします。
だから、原作レイちゃんがアニメのレイちゃんに描写が近寄って行くという事はなかったです。いつまでも、高貴で美しい、別格の少女のままだったです。しかし、12、13歳くらいで、父親の部下と恋愛をし、「あたしと結婚すればよかった」と本気で言える少女に、恋に恋する世代の読者・視聴者が自己投影しにくい気がするので、あくまで原作レイちゃんは特別なままでいるのが正解なのかなと思いました。
別人なのは美奈子もそうで。アニメだとセーラーV時代に面影がほとんどないのに、原作だと美奈子=Vちゃんの香りが強いです。直子姫は美奈子ちゃんを庶民、レイちゃんを別格のお嬢様としていた向きがありましたが、美奈子もある意味ポジションが特別過ぎて、姫の思う庶民の限界を美奈子に見ました。
姫の描く普通の女の子は、ブランドバックを多数所有し、高級外車で送迎され、ちょっとした記念日には近親者や恋人から、ジュエリーを贈られる暮らしなので、よく考えると自己投影しにくいです。はるか・みちるの富裕層まるだしの生活も、あれが姫の生活の水準の普通なんだろうなと思います。生まれは隠せないでしょう。 |
|