■キンちゃんと高松について。キンちゃんは高松と何を話していても、父親の事に話がすり替わって行くので、ちょっと不満かもしれません。高松も、キンちゃんらしさ、個性は分かっていても、自分が口にして言い表したいキンちゃんの良さは、ルーザー様に近い所なのかもしれません。
よくあるパターンで、キンちゃんが高松に反抗してぐれてみるとか。ぐれたとしても、ルーザー様の荒れ模様を知っている高松には既視感のあるものでしょう。高松を嫌っている風に振る舞って見せても「ルーザー様も私にはいつもそうでした」と、余計こっちを傷つけてきそうです。
ルーザー様への思慕を口にするのはキンちゃんを傷つけかねない行為だと思い、高松が黙りがちになると、これまたキンちゃんが気苦労するでしょう。高松の思いはもう止まらないのだから、キンちゃんが折れる事になりそうです。
キンちゃんは、乱暴に伸びていた髪を高松から亡父そっくりに切ってもらった上に、ご衣裳も清潔感ある知的な服=亡父が着そうな服でそろえられたあたりで、高松の思いを受け入れる気だったのかなと思いました。
■漱石について考えていました。漱石に対し名誉棄損もいい所で、いかに劇中で「逃げる」描写が多いのかと思いました。
こころは、逃げる一辺倒の小説ではありませんが、父が病気で瀕死、親戚が集まっている中、先生一人のために郷里から電車に飛び乗って東京に行ってしまう私は、何から逃げたのでしょう。帝大を卒業しても、就職から逃げて、帰郷も嫌と言う私の将来は?と思うと、先生と同じ道なのかもしれません。静と私には子供が出来たそうなので、そこは先生と違いますが。
先生の人生もよく分からなくて。女学生だった静には、先生が頼もしく見えたそうです。お嬢さんそのものだった静に、卒業間近の帝大生はそう見えたのでしょう。先生は優秀だったと思いますし。卒業・結婚後、引きこもり・性的不和を見せだした先生への静の不満は、劇中で少しだけ書かれています。
先生も漱石の外の小説と同じで、「私と妻は結ばれるべきものではない」と言う思いがあったのかもしれません。Kというかけがえのない人の方が、静との未来より大きかった様です。よくもこう、義務・常識から逃げがちの人が続くなと思います。だから自分は暗記するまで漱石を読んだのだとも。
行人の一郎は神経衰弱が増し、家族から追い出されるようにして、Hさんと長期の旅行に行ったまま帰って来ません。彼岸過ぎまでの須永も、千代子の事を放っておいたっま、関西へ旅立ちます。三四郎も、美禰子の婚姻という大事件に結局他人のままです。
行人の一郎は、一家の衰微、自分のせいで家が暗くなっていくのを悲観し、「本当の愛し合うもの同士」である直と二郎を結ばせようとして失敗した結果の疲労の形です。
漱石の、劇中の女性達には迷惑この上ないテーゼ、「自分と妻はニセモノの夫婦である。自分にはこの女性ではなく、別に結ばれるべき女性があるのだ」という思いは、一郎の場合、二郎に期待を寄せる事で発動します。不倫を推奨しているのではなく、「本当の男女」ではない直と自分へのアクションだった様です。 本当に、直や三千代には迷惑なテーゼだなと。三千代曰く「残酷だわ」。 |
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