■漱石のこころにハッとさせられる描写があります。先生はKとの日々を異様なまでに記憶しています。若い静との思い出は事務的です。
Kはものをしゃべる時に、唇を何回か動かしてから話すのだそうです。無口な男の人にありがちな、イラッとする癖ですが、先生のKの唇を見つめている熱心さというと、言語に絶します。同郷の友人、恋のライバルという枠に収まっていません。
夏の男女でごったえる海水浴場で、一回りくらい年上の男性を、孤島まで楽しそうに泳いでまで追っかける私も相当心配です。「愉快ですね」って。
■漱石を片手に成人した様な気がします。高尚な帝大の雰囲気に憧れていたのかもしれません。数学が出来ないので進んだ学校は私立ですが。帝大卒ばかりの偏差値がやたら高い、文芸集団の頂点に漱石はいた様な気がします。帝大は男子校です。どう自分が漱石に憧れようとも、漱石にはなれないのだと、いい加減年をとって気が付きました。
漱石作品のワーストな台詞はいくつかあります。虞美人草の甲野が糸子に曰く「貴方は結婚しない方がいい」。こころの先生の言葉「妻が私を誤解する」を挙げます。いずれも男性陣の自己愛から出た言葉の様に思います。
甲野は未婚の糸子の清らかな明るさを愛でていますが、結婚適齢期で甲野の許嫁の様な娘の糸子には、残酷を通り過ぎて理解不能の言葉だと思います。先生も、性に淡泊でケチで潔癖の引きこもりの夫に、いい加減しびれを切らした妻へ、怒って見せる料簡の無さです。
一体自分は次に漱石の小説を読んだら何を思うのでしょう。「高尚で素敵」とやっぱり思うのでしょうか。どの小説も、あこぎで非現実的な内容を、あの軽妙さと沈痛さが入り混じった語り口でやられるので、意外と楽しく読めます。
■南国&PAPUWA、及び同原作者の作品について、「アニメ化された部分は最高、今でも面白い」「アニメを原作と思った方がいい」とよく聞きます。確かにHEROもアニメ化されていませんが、冒頭のファミリー的なギャグコメディー部分がいいと思います。
当時「腐向け」と言う考えのなかった自分は、男のサクラに一目ぼれして尽くし、いよいよになってサクラが男だと知り、悔やむバードがよく分かりませんでした。今思うと、「俺が馬鹿だった」と思えるバードが普通に近く、PAPUWAならカッコイイお侍キャラが同性の若者のストーカーを嬉々としてしています。
南国&PAPUWAもギャグっぽい冒頭は今でもいいと思います。コタの扱いはPAPUWAで迷走していますが、アニメで精一杯コタを迎えに来たシンタローはよかったです。カミヨミも、ノーマルカップリングありきの怪奇物だった当初は安定しています。
「南国はテレビアニメになった所まで」という言葉を聞くたびに、そんな事ないと思っていました。ですが、キャラへのこだわりではなく、視点を「物語」として考えてみると、その言葉は真実でした。
南国&PAPUWA雑感です。
・高松だけでなく、カムイまで我が子の様に育てたパプワに嘘をつき続けていた訳で。カムイじいちゃの場合他界しても絶対に自分の口から、島にジャンがいるといわないつもりだった。秘石の考えもあったかもしれない。
パプワに嘘をついたと言うより、ジャンの方で一応はパプワを自分の主人だと思っているなら、さっさとパプワの側にくればいいだけで、むしろ悪いのはジャンだろうと思う。カムイは赤い秘石とジャンを信じて、この世を去ったのだと思う。
カムイの他界後、島にガンマ団の殺人者達が押し寄せて悪い事をしても、パプワが病気で死にかけてもジャンは何もしなかった。ジャンは気に入った相手にしか何かしないし、絶対子供の面倒なんてみないだろう。ジャンを信じざるを得なかったカムイに同情する。
高松の場合、カムイと同じく、自分が死んでもグンマに貴方の父親はマジックだと言う気がなかった。高松は、カムイと違い子供を成人するまで育てて他界を試みたのであって、「仮親」としての責任は全うしたものと思う。
真実を知って怒るだろうグンマに殺されるより、色々あって悲しんだり怒ったりしているキンちゃんに自分を殺して欲しいと願うあたりで、もう高松はグンマの仮親ではなかった。
親の顔なんて脱ぎ捨てて、一人の恋する男に成り果てた高松をグンマは見たくないだろうなと思う。長年「高松は僕のためにお仕事頑張ってくれている」と思っていたのだろうから。逆にキンちゃんは、恋する高松の姿が好きだろうなと思う。 |
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