■グンマは自分の「決着」にコタの目覚めや、マジックの優しい言葉が是非とも必要と思っていると思うけど。コタはパプワとの時間がそうさせたのか、意外と視野の広い子になったし、マジックも世話している人間が多過ぎるので、グンマ一人のものではなさそう。
グンマが求めているのは、高松の顔をしていない高松なのだろうなと思う。寝ても覚めても自分を思ってくれ、共依存寸前まで関係を縮めてくれる人。キンちゃんがそんな演技してくれそうだけど、多分続かないと思う。
PAPUWAでコタが暴走しかけた時、グンマは目をそらせて戸惑っていた。青の一族の子なら一回や二回は暴走するので、暴走経験済みのキンちゃんはかえって落ち着いていた。親しい間柄でも時に予想外の事が起こり得るのは、高松に家出されたキンちゃんにはよく分かる事で。グンマも一回くらい10代くらいの時に、大暴走してみればよかったのかと思った。
■図書館で本を借りて読みました。買って読むと置く場所がないので、いつも借りて読んでいます。読んだ感想をいくつか書きます。
・「よいこの悲劇」と言う本。キレる10代とかのトピックスへの提言と言うか、便利で豊かな現代日本において、密接なコミュニケーションは親子でも希薄になりがち、生のぶつかり合いを持って、人は成長する等。現代の親子像についての、カウンセラーさんが書いた。
いい本だと思うけど、話し合えば分かるとか、ぶつかり合いが大事とか、全くスルーしたかのようなオースィンの小説を思い出した。ラブロマンスだけれど、立ち位置的には教養小説というジャンルで、思考や価値観の幼いヒロインが、立派な男性に巡り合って成長する話。
面白い事に、マンスフィールドパーク、高慢と偏見等は、ヒロインの父母が健在であっても機能不全と言われる関係である。母親は娘が美人であれば他はどうでもよく、父親は自分の立場と娯楽にかかりっきりで、娘の悲しみや悩みに思いを馳せる事は無い。娘達も、逆に父母をなだめる立場であって、高慢と偏見のジェーンなどは、実母の態度に傷つけられ、泣き暮らしていた。
オースティンの小説は昔の世界ではあるけれど、家事や労働を一切しない階級の人達の話なので、現代の日本の若者に通じる所があると思う。つまり、自分の事は自分で決めて頑張るしかないし、父母に言い抗って解決を試みても、ジェーン・ベネットや、エリザベス・ベネットの様に甲斐ない結果になるだろうという顛末か。
ちなみにベネット夫人は自分の浪費と怠惰の結果、リディアが男と駆け落ちしても、結果的に娘が嫁に行ければ、あたかも自分の手柄で娘が幸福をつかんだ顔をして、誰よりも大喜びした。エリザベス、ダーシー、ガードナー氏の苦労など、夫人にはどうでもいいらしい。
・大人になる本、というのを読んだ。今更手遅れの様な気がしたけど、大人になりたかったから読んだ。具体的な事が書いてある訳でなくて、精神論がほとんどだったので読みやすかった。
「自分の中に色々な自分がいるけれど、その人達を堕落させるのも、コントロールして自分の力になるのも自分次第」とか、忘れていた事が読めて感動した。「人が何と言おうとも、自分が悩んで決めた事は「いい事」なのだ」」とあって、ちょっと安心した。
読んで本を返そうとして。後書きを見たら、アメリカのハイティーン向けの読本の和訳だった事を知った。約20年くらい自分は手遅れなのではないかと思うけど、本に出会った事が有難い。
所で本の中に、「偉い人や権威のある本がそう言っているからって、納得出来ないなら従う必要はない」とあって。成程と読んだけど、危うい言葉だと思う。偉い人とか権威のある本と言うのは、偉いとか権威とか思われるまでの経緯が何なりとある訳で、ハイティーンにの重みが分かるのだろうかと思う。
どんな知識や名言でも、自分で咀嚼しないと自分のものにはならないから、「納得」に至るまでが大事なのかなと思った。 |
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